【 入 選 】
「私の将来の目標は、研究に携わり大学で教鞭をとり、日本の高度教育の一旦を担うことです」
両親を始め、友人や先生にも今のようにはっきりと述べたことのない私の目標を、今初めてここに公言した。今まで会話の中で将来のことについて触れたとしても、私の言葉には必ず「できることなら」だとか「だけど……」が付属していた。「将来的には、できることなら大学院に行って博士号を取得して大学で教えたいが、やはり普通に就職活動をして普通に働いた方がいいに決まってるし……」といったように。私がこのような、ある種の「諦め」の言い方をするのには、研究職につく難しさや金銭的事情、そしてそれに伴う恥ずかしさに因るところが大きかった。
現在私は日本文学を専攻する大学三年生であり、学部卒業後は大学院に進学したいと考えている。しかし、人文科学系で大学院に行くことは自殺行為だと言われている。そのように言われる所以として、院修了後の就職率が学部卒業と比較すると遥かに低いことや、研究職に就くにしてもそのポストがあまりにも少ないことが挙げられる。大学院修了後、即戦力となる自然科学系とは圧倒的に立場が違うのである。
また昔とは違い、今は研究職に就くには博士号の学位を持っていなければ非常に厳しいとされている。博士号を取るには、学部に4年間、大学院修士2年間、博士3年間の計9年間は大学に在籍する必要があるが、これは最低年数であって、これよりも延びる可能性もある。国立大学の場合1年間の学費58万円や生活費等を含めると、出費は嵩むばかりである。
では、修了後にそれに見合ったものが得られるかと言えばそうではない。仮に博士課程まで修了したとしても、研究員や講師になることは難しいとされている。非常勤講師となれたとしても、それで食い繋ぐことは非常に難しい。奨学金を借りていればその返済が始まる。このような金銭的事情もある。
こういった現実を知っていくにつれて、段々と気安く「研究職に就きたい」などと言えたものではなくなった。私は「人生を甘く見ている」「一生貧乏生活か」などと思われ蔑まれたくなかった。心の中で研究職に憧れながらも、「公務員と民間、どちらが自分に向いているだろうか」などと本気で考える始末である。
そんなことを考えている最中、ふと「では働くとは一体どういうことだろう」という疑問が頭をよぎった。お金を稼ぐための手段?社会的に安定すること?社会への奉仕?自己の充足?幼い頃より父から「安定した職に就いて、家族を養う。それが働くってことだ」と言い聞かされてきたが、本当にそうなのか。
その答えは今でも出ていない。それは、思い当たるそれらが正解でもなければ不正解でもないからではないだろうか。
「働く」とは、人によってその持っている意味が違い、千差万別である。よって他人の目を気にするのは笑止千万であって、その人が自らの人生において何を重視するかが重要なのではないか。私は今やっている文学という学問が大好きで、私の人生において文学を学び研究することが生きがいである。そしてそれを使って少しでも今の研究が進み、また僅かでも次の世代を担う若者に学問という「力」を与えられる仕事ができたなら、私は本望である。
たとえそれを現実のものとすることが難しくたって、時間がかかったっていい。周りにどう思われようが関係ない。私は私の生きがいのために、これからの人生を歩んでいきたい。そしてこれからは自信を持って、胸を張ってこう言えるだろう。「私の将来の目標は、研究に携わり大学で教鞭をとり、日本の高度教育の一旦を担うことです」と。