母の母、私の祖母は私が三歳の時に夫を亡くした。終戦の三年後である。母の妹、つまり祖母の末の子はまだ六歳であった。
祖母は家業である日用品卸売業の仕事をついだ。仕事の中枢は古くからの番当さんが担い、祖母は"社長"ではあったが、所請裏方の仕事をしていた。商店の二階が祖母の住まいだった。
店のお得意さんの中には行商の人たちもいた。彼女らは一番列車に集まって店に寄り、仕入れて売り歩くのだった。あつかうのは主に魚や野菜だったが、お客には日用品も頼まれたりするのだった。
冬の日、祖母は白い息を吐きながら来る人たちのために石炭ストーブをガンガンたき、早くに店を開けた。
背中に大きな荷かごを負った人たちは「暖かさが何よりのごちそう」と祖母の心づかいをよろこんだ。そして祖母の声がけに相好をくずした。「おはようさん。ごくろうさん。まいどさん。いつもがんばるねえ。子供さんは元気にしてる?今日は?洗濯石けん、マッチ、学習ノート、半ダースずつね。いつもまいどさん」
祖母の声の張りや抑揚が今でも耳に残る。
働く祖母は、輝いていた。
私の母は四人の子を育てながら、父の営む酸素溶接の工場を手伝っていた。母は父に、実家の卸売業を手伝ってもらいたいと思っていた節がある。しかし、職人の父である。(酒が入らないと)極端に口が重い。商売のタイプに一番遠い人だった。
母はがっかりはしたが父の仕事に協力をした。帳面をつけるのは父だったが、その帳面をみて月末に請求書を起こし、集金に回るのは母であった。また税務署への申告なども母の仕事であった。母が集金に行く日は私が弟や妹の守りをした。仕事に行く母の後ろ姿はりりしく見えた。
そして、私は高校生となり、進路を決める時が来た。私は言った。「東京の大学へ行きたい」
無口な父に代わって母が言った。「うちにはそんな余裕はないんだよ」
確かに私にも家計が分かっていた。腕はいいが商売下手な父である。日々のつましい生活がそれを物語っている。それでもなお、「東京の大学へ行きたい」と、この我がまま娘は言いつのるである。
娘のために母は考えた。自宅に二間を増築し、下宿屋をやることにしたのだった。
二人の下宿生をおき、朝食と夕食を提供する。そのお金で私の東京生活の費用を捻出する。
晴れて大学生になり夏休みに帰省した私は下宿屋のおばさんとしての母の働きを目にすることになる。家族の食事、下宿生の食事、工場の手伝い……母は休む間もないようであった。しかし、母は楽しんで働いているように見えた。笑顔で皆に接し、仕事の合い間に趣味と実益の編み機に向かう母。
働く母は、輝いていた。
そして、私である。
学生結婚をし、学校は一年でやめてしまった。何という親不孝だろう。子供は親に対して何て自分勝手なのだろう。
しかし母はそのことは責めず、私の子、自分の孫である娘の誕生をよろこんでくれた。
夫の給料をやりくりしながら、子供二人の成長に合わせてパートタイマーの仕事をした。時は高度経済成長期。パートの時給も目に見えて上がっていった。しかし、パートタイマーの仕事では何かがものたりなか った。
そしてそれから幾年月。母に介護が必要となったことが、私が介護の仕事に踏み出すきっかけとなった。
働く私は、輝いているかなぁ。輝いていればいいなぁ。どうですか?天国のおばぁさん、お母さん。