私は根っからの子ども好き。教師バカと言われても笑顔でいられる人間だ。来世は、アメーバーか昆虫か何に生まれてくるか分からないが、人間に生まれてこれるなら、また教師になりたいと強く思っている。
わが小学生時代を振り返ってみよう。大工職人の父と働き者の母、そうして私を頭に四人姉妹の六人家族だった。祖父も大工だったので両親は、男の子誕生を待ちわびていた。女の子ばかりの家族、父は悔しさの中で仕事に励み、辛い時は酒を飲み憂さを晴らしていた。母は、子育て、家事、内職に励みいつも家にいてくれた。苦しい時も歯を食い縛り、台所ではよく歌謡曲を口づさんでいた。貧乏ではあったが、とにかく明るく温かい家族であった。
親の姿を見ながら大きくなったが「働かないと生活できない」「元気で一生懸命働くこと」この二つを学んでいた。ある時、家にお金がなくなり、母の内職代を妹に取りに行かせた。母の情けなさそうな顔を今もよく覚えている。「母の内職代をください」と頼みに行った妹のすごさも忘れていない。とにかく貧しかった。 でも、これがよかったと思う。ハングリー精神が持てたと思う。
私が中学生、高校生になると、父は棟梁と呼ばれ金回りはよくなった。が、気前のいい父はみんなに奢り、家にあまりお金を入れなかった。母は上手に遣り繰りし、ある物で工夫しておかずを作ってくれた。すべてがおいしかった。自分の母を十歳の時に亡くした私の母だからこそ、いつも子供に真剣に向き合ってくれる心温かい存在であった。
父母がよく言っていた言葉がある。「貧乏は恥ずかしいことではない。貧乏に負けても悪いことをしてはいかん」と。私達子どもは、「貧乏に負けんぞ。仕事をしてお金を儲けるぞ」とずっと思い続けて生きてきたのだ。
また、学校ではさすが先生!!と尊敬できる大人に出会えて幸運であった。
四年生の担任の先生は、学ぶ喜びを教えてくださり、成績がぐんぐん伸びていった。母の言葉「あの先生は、ええ先生や。貧乏でも公平にみてくださりありがたい」も心の宝として残っている。
五・六年の担任の先生からも私は大きな影響を受けた。国語専門の先生だったので、文学作品の指導は特に引き込まれた。修学旅行のあと、詩を発表する機会をもらった。「井上さん、この坊主地獄の詩を背面黒板に書いてね」と言ってくださったのだ。一生懸命チョークで書いたが、あの時の充実感は今も体内で輝いている。文を書くことが大好きな乙女誕生であった。立派で人間らしい先生に出会わせていただき、私は六年生の時「教師になりたい。なる」と決めたのだ。決めたら前進、努力あるのみであった。必至で勉学に取り組む私に、大学入試前に苦言を述べる父がいた。「女は大学など行かんでいい。生意気になるだけじゃ」と。反対され余計に燃えた。屋根裏部屋で死にもの狂いで勉強している私に「やりたいんなら思いっきりやりなさい。母ちゃんが応援するから」と母が後押ししてくれた。嬉しかった、力強く思った。天窓から見える月や星までもが味方だと思った。負けんぞと自分にいつも言いきかせた。根気強さと負けん気も目標達成には、重要なものであった。
その後の私は、国立大学教育学部に合格、入学した。父も少しずつ納得し「わが娘ながらやるもんや」と嬉し顔に変わっていった。採用試験にも見事合格し、公立小学校に勤めるようになると、父は毎朝、自転車の整備をしてくれた。とてもありがたかった。
お陰で三十八年間、休むことなく教師として働いた。山あり谷ありであったが。"働く"とは、端はたが楽らくになることと言われる。苦楽を共に受けとめ、自分の好きな仕事をやり通したいものだ。私は、「また生まれても教師」と思っている。