1985年に男女雇用機会均等法が公布されると私の処遇と職場環境が少しづつ変化した。まず給与の改定、昇格、そして仕事の機会もおとずれた。私は自動車メーカーの海外営業部の主任だったが、一番大きな変化は長い間希望していた海外出張が実現したことである。当時私は北米の現地会社や販売店を管理し商談を進める営業担当者だった。後輩の男性社員が現地に出張するのを横目で見ながら自分のモチベーションをなんとか維持していた。時には私の代わりに出張した社員の報告を聞くこともあった。私は現地を知らない営業担当者は仕事上何かと不都合であると、機会あるごとに上司に訴えた。しかし本社決済の海外出張は直属上司が認めても会社が許可しなかったのだ。
当時働く女性はOLと呼ばれ、仕事は課員へのお茶サービス、机拭き、コピーやファイル、文書の清書、上司の使いなど補助業務が中心であった。一部のベテラン女性社員は担当者として仕事を任されていたが、補助業務も彼女たちの仕事の一部でありお茶当番も回ってきた。その役割分担に疑問を持つベテランの女性社員と共に会社に様々な提案をして認めてもらった。例えば男性社員しか出席出来なかった研修に女性も出席させること、お茶入れや机の清掃などは各自でする事にして代わりに給茶器を導入してもらうことになった、などである。それから間もなく私は係長になり会社始まって以来の女性の営業部員として海外出張に出かけることが出来た。その後は後輩社員も海外出張に行けるようになったのである。
やがて私は本社人事部に異動になった。ここでは採用や教育研修業務のかたわら技能職の女性社員の受入れ準備チームの一員となった。主に工場の生産ラインや休憩所など女性の技能員を迎えるための設備や施設の改善に携わった。わが社では女性の職域が広がり男性社員に交じって生産現場で働く女性技能員の姿は新聞でも取り上げられた。
海に浮かぶ氷山は、海面から見えない水面下の方が深く大きい。会社の取り組みにより目に見える問題は 解決したが水面下の問題は未知数だった。しかし私はこの変化を単純に喜んだ。職域が広がり仕事の機会も増えると考えたが、仕事に必要な知識やスキルなど知らないことも多かった。まず自社の経営の実態、制度、しくみ、その社会的責任、また仕事で評価される「社員」の立場などの原則を知り、職場の慣習、はては本社独特の文化などもすこしづつ経験から学んでいった。仕事は一人では出来ない。上司や同僚の理解と協力があって自分の仕事が成り立つのだ。やがて女子総合職の入社やベテラン女性社員の処遇の見直しもあり頑張る女性や応援してくれる男性社員も増えていった。
今、私は定年退職し行政の男女共同参画推進をサポートする立場にいる。条例の後押しもあり市民委員会にも女性の登用が増え、男女平等の問題解決のためのNPOも生まれている。社会の変化と共に働く女性の意識や価値観も多様化している。私の現役時代には会社員である前にまず女性というジェンダーが優先され納得が行かないこともしばしばあった。仕事は上手くいって当たり前、失敗すると女性には無理だった、などと言われネガティブな評価が定着してしまうこともあった。それは「男性は仕事、女性は家庭」という日本古来の固定的な役割分担意識が根底にあることが原因であるが、残念ながら今でもその考えは無くなってはいない。女性の課題は万人に通じると言われる昨今、まだまだ女性には厳しい現実が残っている。社会や職場でもいまだに女性個人の頑張りが必要なのだ。仕事で会社へ貢献することは人間的な成長を促し自己実現につながってゆく。最近は長く働く女性も増えて働き方も多様になった。すべての働く女性は誰かのロールモデルになりうるということではないだろうか。そう考えてどこかで彼女たちを支えて行きたいと思っている。