【 努力賞 】
【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
私の仕事・働き方を決めたきっかけ
大分県 小関初恵 64歳

「40年間、おつかれ様でした」

今夜は、私の定年退職の記念すべき、家族だけの食事会である。メンバーは、私の母、息子、私、の三人である。

病院栄養士として20歳の時から、つまづきながらも、私なりに良く勤めたと、満足している。

その間、いろいろの苦難、波乱万丈の人生だった。

私が子供の頃夢みていた将来の仕事は保母(保育士)だった。一人っ子だったこともあり子供が好きで、工作、絵等も得意なほうだった。中学校の頃、自分の進路について考えた。先生に「好きな事、やりたい事を職業にすることは良いと思う。しかし自分に合っているか、出来るか、も視野に入れなさい。保母は無理と思う」と言われた。私は生まれてまもない時。小児マヒという病気になり、以来足に障害がある。はたして、こんな私に出来る仕事は、あるのだろうか、悩んだ。

私は料理が好きだということに気がついた。料理人、・・・料理を提供しての店・・・。先生は「まだ、聞きなれないかもしれないが栄養士という仕事がある。病院で、患者の為に食事指導をしたり、病気に応じて献立を作ったりと、これから重要な職業だ」

さっそく病院の栄養士を訪ね、内容を聞いたり見学させてもらった。栄養士室に案内され、机の上の仕事の多さに又びっくり。あの頃、昭和38、9年ごろは、今のように電卓もなければ、パソコンもない。ソロバン片手に頑張っていた。先生に報告した。「私、栄養士になりたいです。決めます」と。高校、短大と進み、昭和45年春、外科病院に就職が決まった。

仕事の量は多かった。家ですることもあった。こんな私を雇ってくれた病院のため、一生懸命頑張ろう。 青春まっただ中で、恋愛、失恋、結婚、出産、離婚、とめまぐるしく、思い出も多かった。今思うと人生の中で一番輝いていた時期だった。つらいこと、不満に思ったことは何度もあった。栄養士ではなく、他のことをしようかと考えたこともあった。だが、私には何も出来ない。これしかない。と思い定めた。

やりがいのある仕事をさせてもらって感謝する日々だった。この道を選んで本当に良かった。中学の時の先生のアドバイスのおかげと思う。定年退職が間近かになったころ「栄養士としての人生に無事幕を下ろそう。一日一日を大切に悔いのないように」それだけを願った。

障害をもっているから、強く生きてこれた。人にやさしくできた。

生まれかわっても、栄養士の道を選びたい。

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