私は35歳の時、16年間続けた調理人を辞めて重度心身障害児施設で介護職に転職した。いきなり料理の世界から福祉の世界へ移った理由としては景気に左右されない安定した収入の確保と第一子として生まれた娘がチャージ連合という複数の障害を持って生まれてきたこともあって障害児施設を選んだ。最初の3年間は介護職として働いたが38歳の時私の人生上、最もと言っていいほど大きな転機を迎えた。看護学校に入学したことだ。ある日看護学校へ提出する書類の中に健康診断の欄があり医院長先生に書いてもらうため医院長室を訪れた、先生は「書くが、この書類をどうするのか、差し支えがなければ教えてくれないか」と尋ねてきたので「看護学校を受けようと思います」と即答したら先生は笑顔で喜んでくれた。それと同時に私の生活の事を心配して施設側に掛け合ってくれ、施設には看護学生を対象とした奨学金制度があることまで調べて私に利用するように助言してくれた。当初は2年間だけ学校へ行き准看護師の資格を取得して当施設で勤務する予定であったが卒業が近づくにつれて施設の看護師の方々から男性なら看護師まで取得するように言われた。また同じ学校に生徒の半分以上が進学することもあり次第に進学を意識するようになった、しかし半面2年間学生をしたことで奨学金があるというものの家計は火の車、あと3年学生を続けるものなら家計は火の車どころか完全に燃え尽きてしまう、それに私が進学しようとする学校は日本中でも5本の指に入るほど学費が安いため受験生が多く自然と倍率も高い、このチャンスともピンチとも言える中最初に妻に相談した。「いいよ、頑張って働くから、もう3年学校へ行きなさい」と快く言ってくれた。後は受験に向けて勉強するだけだが私は過去10年間の問題を集めた。過去の問題はわからない問題が多く試行錯誤している中、またまた医院長先生が声をかけてくれた「わからない問題は一緒に考えて解いて行こう、いつでもいいから部屋に来なさい」言ってくれたである。この時から私と先生の二人三脚とも言える集中講義が始まり約1カ月先生は付き合ってくれた。その甲斐もあって無事受験に受かった。妻と先生は我がことのようによろこんでくれた。私は合格したことに対して嬉しいことよりも2人の期待に応えられたことへの安堵感でいっぱいだった。学校に通いつつ週末は施設で勤務ということ続けさせてもらったことでギリギリの生活ではあるが送ることができた。そしていよいよ病院実習のため施設を辞めなければならない日がきた。先生に挨拶をするため医院長室を訪れた。先生はいつもの笑顔で迎えてくれた。「実習が終わったら後は国家試験だけだから頑張れ」と励ましてくれた。そしてもう一言「看護師になったら自分の働きたい病院を選びなさい、いや絶対にほかの病院で働く方が勉強になるし看護師として視野も広がる、私への恩だとか施設の職員不足のことは考えなくていいから自分の思った道に進みなさい、そして何年か経ってここに帰ってきたいと思ったら帰ってくればいいのだから」と言ってくれた。先生のこの言葉もあり卒業後は総合病院に就職することを決めた。総合病院では2年間手術室に配属された。今までとは全く違う世界に戸惑いの毎日だったが何とか頑張ることができた。そして昨年以前の施設に帰り勤務している。やはり私が看護師になりたいと思った原点には障害児の看護がしたいと思ったからだ。同時に娘も当施設のデイケアに通っている。親子共々お世話になっているわけだが私が看護師になれたのは紛れもなく家族と医院長先生のお蔭だ。私が受けた恩をこれからは施設の患者様に注いでいきたいと思う。そのことが家族と医院長先生への恩返しにもなると思うのである。