私が今の会社で働き始めたのは1995年。その頃の私は、夢中で目の前の「仕事」を片付けるだけの日々に明け暮れていました。仕事は、お客様を相手にする「サービス業」。どれだけ仕事をすれば「100%」なのか、その答えはありませんでした。ただ、私の中で決めていた目安は「お客様の笑顔」。しかし、これも漠然としていて、けして企業の求める「答え」ではありませんでした。結局、企業の求める答えとは「数字」であると、当然である「利益追求」の本質に気が付いた時、心が「仕事」と向き合う事から逃げ出そうとしていました。
そんな時、私に言葉をくれたのは母でした。母は、私と、私の兄弟2人の3人の子供を育てる為「プレス工」として30年余り働いてきました。子育てをしながらも「昭和」の母は強く、私は、母の口から「愚痴」を聞いた事は記憶にありません。むしろ、楽観的というか、けして裕福では無かったけれど「貧しい心では無かった」事が思い出されます。そんな母が話してくれたのが「端(はた)を楽(らく)にする」という考え。
きっと、どこかの誰かが言った言葉を「受け売り」したのでしょうが、母の口から聞かされた時には、仕事に対する自らの凝り固まった偏見を壊された思いがしました。「お客様」を喜ばせると言いながら、私が考えていた事は「自分の事」ばかり。その思いに相反する事があれば不平不満を言って愚痴をこぼすだけ。やがて仕事そのものに否定的な考えを抱くようになっていました。しかし、「自分の周りに居る人たち」を楽にさせる為に、一心不乱に働き続けてきた母の姿には「説得力」が在りました。
私は、とにかく一緒に働く「仲間」の為、それがたとえ何の得にもならないとしても、自分が助けられる事が無かったとしても、「端(はた)」つまりは、周囲の人を「楽(らく)」にさせる事だけを一途に考えて、仕事に向き合いました。例えば、人の嫌がるような仕事、きつくて汚い仕事、大変な仕事すらも、自ら率先して取り組むようにしました。それは、全て「端楽(はたらく)」の精神の元で。
その姿を滑稽に思う人、出世をしたいからだと中傷する人もありましたが、私は、とにかく自分が認めた精神、働くことの本当の意味を一途に、頑なに信じて、日々の苦労をなるべく楽観的に考えるようにしました。
それから20年。私は、勤めるゴルフ場の「副支配人」として営業の責任を預かる立場になりました。それでも私は、20年前の精神を忘れる事無く、日々の仕事に前向きに取り組んでいます。それが「正解」なのか、私には分かりません。企業の求める「数字」は、けして精神論だけで導き出されるような簡単なものでは無いからです。それでも、私が仕事に取り組む姿を見て「私のように」と、けして強制したわけでも無いのに「見習おう」とする姿勢を見せてくれる後輩も、数人ではありますが現れるようになりました。それが不思議でもあり、また、けして「答え」にたどり着く事も無い、この「精神論」の中で、彼らも私と同じように苦労し、汗をかき、時には頭を抱えて悩む日を経験するのかと思うと、応援せずには居られません。同時に、私の「端楽」の精神に火がつき、彼らをサポート出来る何か得策は無いかと、私も同じように「心の汗」をかいています。
来年で勤続20年の節目を迎えます。が、私の「仕事」は、これから。若い人たちには、負けていられません。かつて、母が「そう思った」ように、私は「楽観的」に「端楽」の精神で今日も頑張ります。そんな事を続けていたら「鬱になるかもしれません」などという医学論が在るのか分かりませんが、今年「70歳」で「老人介護施設」にパートタイマーとして現役で働いている母の姿を見れば、「端楽」の根拠を否定出来ません。ですので、私はこの先、何年続くのか分かりませんが、全ての「私に関わる人」に対して、献身的で在り続けたいと思っています。これが、私の「働き方」です。