私に教えてくれたこと〜
「もう、辞めます」
子ども向け教材の営業をしていた私はたまらず言った。営業成績が一向に上がらず腐っていたのだ。目先の数字にとらわれるあまり営業の基本も、働くことの喜びも尊さもすっかり忘れていた。ただ焦り、もがいていた。
「引き留めはしないが、これだけは仕上げてから辞めろ」
当時の上司はそう言った。何か一つ、心からやり切ったと思える仕事をすること、そして仕事の意義を改めて考え直すこと。この二つの"ノルマ"を私に課したのだ。しっかり、やれよ。いつもながらの厳しい表情で上司は命じた。私は黙ったまま頷いて答えた。
クタクタになって家に帰ったある日、私はベットにもぐり込んだ。度重なる商談にも関わらず成約に至らなかった日の夜だ。うたた寝から起きた私は営業用マニュアルの片隅にくやしまぎれに書き殴った。仕事とは、
最後の営業の日が来た。私はツールを揃え、会社を出た。ところが途中携帯電話に連絡が入った。訪問する予定の家庭から会社に連絡が入り、キャンセルしたいとのことだった。
さて帰ろうか、と思った矢先に上司が言った。とにかく訪問して出来る限りのことを相手のためにして来いと。言われるままに伺ったが玄関先でけんもほろろに断られる。最後の営業はあっけなく幕を閉じたかのように思われた。
帰り道、私は一人の老いた女性を目にした。徘徊気味に歩くおぼつかない足取りを心配した私は家まで送って行った。お茶でも。彼女はそう言って私を家に招き入れた。痴呆気味の彼女のくり返す同じ言葉に辟易としながらも同じく痴呆を患っていた祖母の姿を重ね、話相手をつとめた。
あることを思い出した。物忘れが始まった高齢者には紙に簡単な漢字や数字を書いて当てさせるといい、どこかで読んだ記事だ。クイズやゲームのようなちょっとした学習が脳に刺激を与えて良い影響を与える。 確か、そんな類の内容だった。
私は名刺を取り出した。その裏に漢字を書いて彼女に当てさせた。もう、使うことのない名刺。その裏に文字をいくつも書き、何枚も彼女に見せる。何か人のために役に立ちたい、子ども向け教材とは何の縁もない目の前の老いた彼女を相手に最後の仕事をきっちり、しっかりやり遂げようと考えたのだ。
彼女は私の出す問題に夢中になって答えた。顔をしわくちゃにして必死で漢字を当てた。少女のようなあどけない表情でケラケラと笑いながら一つ一つ、問題に答えていく彼女の姿に私も微笑み、感動した。額にしわを寄せて無邪気に笑う彼女を見てしばらく忘れていた満足感と達成感を久しぶりに思い出した。
退職日が真近に迫ったある日、私は上司に呼ばれた。「お前あてにアポイントの電話だ」例の痴呆の彼女の娘と名乗る人からだった。私は早速、訪問した。
電話の彼女は喜んで迎えてくれた。私と過したことで母は心から喜んでいた。久し振りに母の笑顔を見た。 名刺を見て連絡したのだが今度、中学生になる娘に教材を売ってほしい。母から孫へのプレゼントとして・・・、傍ではあの老いた彼女が微笑んでいた。
会社に帰った私は報告書を書いて上司に提出した。普段、厳しい表情の上司も笑顔で報告を聞いた。他の社員もにこやかに讃えてくれた。私は照れ笑いを浮かべた。
報告書に、一枚の紙を添えた。上司から命じられたもう一つのノルマだ。『仕事とは無