【 佳 作 】
齢は80路の峠を越したこの老人が、と思わぬでもなかったが、以前に一時を学生諸君と過ごした身の性で、つい若い諸君に伝え一緒に考えたいと思い筆を取った。
私がまだ小学生の頃、近所に何時も模型飛行機を作って飛ばしていた人が居て、暇さえあれば私もその側に行ってそれを見ながらだんだん飛行機が好きになり、飛行機作りに嵌まり込んで行った。そのことが、その後の私が進むべき進路の決め手となって、工学部に進んで卒業したら飛行機関係の仕事をしたいと思っていた。
ところが敗戦によりGHQより日本の航空機関係の業務が一切禁止され、やっと解除されたのが昭和27年、卒業の数年前であった。従って飛行機関係の仕事などができる会社は殆ど無く、止むなく飛行機の次に興味があった大型船のエンジンを造る会社に幸いにして入社でき、これが私の一生の仕事になった。
人間は男性女性を問わず、働いて独り立ちし、家族を養い、共に生活し、そして又世の中の人々や社会の為にも役に立つ仕事をしなければならない訳で、若い人には、先ずは自分が好きでやり甲斐の有る仕事を早く見極め、それを手中にする手段を考えて、それに向かって邁進することが第一である。その為に子供には小さい時から色々好きなことをさせて、適性を見出す手助けをするのも親の務めであろう。
私は元々物造りが好きだったのでエンジンの仕事は楽しく、その上それを搭載した船は世界の海を巡って経済活動を担うものなので、その仕事はやり甲斐もあった。然し時にはそのエンジンが故障して、あちこちの港に飛んで行って油にまみれて修理をする事もあって、結構厳しい仕事も多かったが、自ら好きで選んだ仕事であれば、へこたれることもなかった。仕事には、愛情とやり甲斐が必須なのである。
そうこうする内に私も定年で会社を辞することになり、その後の10年余り、今度は学校で教鞭を取って若い学生諸君との交わりが始まった。そこでは学生諸君を物造りに駆り立て、皆でグライダーを造って海に飛び出す鳥人間コンテストに出場したりした。翼の強度計算などでは『正確に計算をしないと、試験で間違ったらそれに落ちるだけだが、ここで計算間違いをすると、翼が折れて君らが空から落ちることになるぞ』と言うと皆しっかり頑張って、初出場でかなり良い順位に入る成果も挙げてくれた。近頃の学生諸君はアルバイトに精を出して余り勉強しない等とよく言われるが、やはり目的意識をはっきり持てば良い仕事が出来る訳で、これは就職後の働きにも同じことが言えると思う。その就職が学生諸君には後門の狼で控えていて、皆さん頭が痛いことであろうが、これも考えようで、巧く行かねば次善の策を、それで駄目ならその次の道を選んで真面目に頑張って行けば、不思議にそれが最善の道に変って来ることも多い。一時は卒業も危ないと思われた学生が、卒業後は会社で信頼、重宝され、家族もできて楽しい家庭を築いている例は枚挙に暇が無い。
年は過ぎて学校も退職し、若い学生諸君とも別れてからは、やはり何か他人の為になることをやらねば生き甲斐が無いと思い、今は或るボランティアグループに入って、障害を持つ方々を助ける介助機器を造って差し上げる作業をぼちぼち行っている。そういう障害を持つ方の動きや生活が少しでも楽になり、喜んで頂けるとこちらも嬉しい。働くことの究極の喜びは、この様にお互いに裸一貫で人々がお互いに力を分かち合い、助け合い、支え合って生きて行くことにあるのであろう。
この老人がこれから更に何が出来るのかと考えるといささか気が滅入って来るが、若い人々には、目の前に洋々たる無限の可能性のある世界が広がっており、私共から見れば真に羨ましい限りである。若い皆さん方がそれぞれに適した仕事と、楽しく働ける居場所を早く見付け、しっかり働いてくれることを願って止まない。