【 佳 作 】
20年前、私が家族と暮らしたブラジルは今以上に貧富の格差があり、街中を歩くと裸足で薄汚れた顔の子どもや大人がレストランや日曜市の雑踏、信号待ちの車列の間等で平気で金銭をねだり、汚れた布で気休めの窓拭きをして代金を要求したりした。その行為はだいたい無駄骨に終わるが、当時5歳の長男と変わらぬ幼子までがその一団の中に居る様にやり切れない気持ちによくなったものだ。
なぜ彼らは学校にも行けず、路上でそうしたことを日々繰り返すのか。貧富の格差があるから、子どもとてお金を稼ぎ、家族の手助けをするのが当たり前と言えばそれまでだ。しかし教育を受けられず読み書きが満足にできない子どもでも、彼らなりに金銭をねだる術を磨き、窓拭きや人形売りを仕事として働こうと努力する姿は健気ではないか、そう考えるようになった。
働くとは何か?について日本でも昔から様々な考え方がある。生活の為、趣味が高じた為、仕事への誇りや使命感の為、ライフワークのように生きがいの為等々。でも人は自分の趣味や使命感、生きがいとマッチする仕事になかなか就けるものではなく、その希望や夢が現実とのギャップで覆され大いに挫折や自己嫌悪に陥ることも多いはずだ。
しかし人が生きる上で希望や夢は大変重要である。なぜなら希望や夢が実現した時、人は幸せな気分になれるからである。いや本当の幸せを感じるかもしれない。だからこそ、人は働くのであり、将来の仕事に希望や夢を抱くのである。
ブラジルで路上生活をする子どもたちも皆将来に対する希望や夢があり、サッカー選手やファッションモデルになることに憧れて嬉々として語るのである。それは同時に家族を幸せにするという、厳しい現実があるゆえの目的も合わせ持っている。
先進国の子どもならもっと自分本位に将来の仕事を選びそうだが、彼らは家族の為と言ってその犠牲になっている意識はない。
そうした点が働くことについてブラジルの路上生活をする子どもさえもが持つ逞しさであり、生活の為でも仕事への誇りや使命感の為でもある彼らの労働観になっている。
さらにある時、日系人の友人からその路上生活の子どもたちに定期的に教育を施すボランティアグループがいると聞かされた。そのグループのメンバーは隔週決まった日に、子ども達が寝起きする広場に夕方材料を持って集まり、食事を与えた後、たき火や外灯の灯りを頼りに国語と算数を子どもたちに教えまた各自帰って行くのだと言う。まさに地面が黒板や教科書であり、木切れがチョークや鉛筆なのである。
なぜそのグループは食事を与えて教育を施すのか。その原点は愛情だと言う。家庭的に恵まれない子供たちが、大人達から食事や教育を通して協力や思いやりを肌で体験する。そして共に食べる楽しさや学ぶ楽しさを知ることで社会へ出る意味や働く意味を理解するようになるのである。
日本で生活しただけでは、家族の幸せや大人からの愛情が働くことにこれ程強く反映していることは決してわからなかっただろう。日本の場合、懸命に就活で仕事を見つけた若者が数ヶ月後には働くことに疲れ、希望も夢も亡くしていく。その過程には家族を安心させたい気持はあってもその気持ちを受け止める大人の存在や愛情の存在があまりに弱いのではないかと思う。つまり、大人社会全体が、未熟な段階からの若者の働きから得る多様な幸せを許容したり、育んだりする活力を失って、働くことが単純に金もうけや名誉欲のため目的化したり、道具化したりしている。もはや人間が働く行為ではなく、機械が感情もなく仕事をこなす作業に等しい。
ブラジルで見た現実は厳しく辛いものだったが、他方で私たち日本人に働く意味を根底から問いかけるものだった。