【 佳 作 】
人は何のために働くのか?お金を稼ぐため。生活のため。でも、それだけではないことを私に教えてくれたのは、母だった。
「一番お父ちゃんを知らないユミ子が一番お父ちゃんに似ているなんて、不思議だね」
母は私の顔をよく懐かしそうに見ていた。昭和34年、父が交通事故で突然、亡くなった時、母は32歳だった。2人の姉は6歳と4歳、私は2歳だった。
「上の二人を連れて実家に帰って来い。末っ子はまだ物心が付く前だから、里子に出せ」
祖父に言われた時、母は啖呵を切った。
「3人は私が育てます。決して、離れ離れにはしません!」
母は親の決めた婚約者がいたのに、父と駆落ちして結婚した。
母は静岡県 掛川市で生まれた。男3人、女3人兄弟の末っ子だった。結婚するまで働いたことはなかった。結婚後は専業主婦だった。そんな母が幼い三姉妹をかかえて、働くことになった。
昭和30年代後半、働く女性は少なかった。結婚は女性の「永久就職」と呼ばれていた時代だった。資格もコネもない専業主婦だった女性が働ける場所は限られていた。その一つが「生命保険の外交員」だった。人に頭を下げたことがなかった母にとって、営業は人生修行だった。個別訪問すると、居留守を使われたりインターホン越しに「けっこうです」と断られたりで、ドアも開けてもらえなかった。会社訪問は社内に入れるだけまだましだったが、ほとんどの社員に無視された。
「私に出来ることがあったら、何でも言って」
父の葬儀の時、そう言ってくれた親戚や友人に保険の勧誘に行くと、やんわりと断られ続けた。基本給だけではとても生活出来ない。父が遺してくれた保険金は減り続ける。契約を取らなければ、家族4人路頭に迷ってしまう。
「集金をしてみたらいいかも。毎月、訪問していたら、顔なじみになる。そのうち声がかかるようになって、契約がとれるようになるよ」
先輩のアドバイスに従って、母は集金の仕事を回してもらった。当時、銀行振り込みはなく、保険料は集金していた。集金に来たのならドアを開けない訳には行かない。集金は大変な仕事だったが、なんでも真面目にコツコツ続けていたら何とかなるものだ。最初の契約が取れたのは集金からだった。
母は次第に契約数を伸ばし給料も増えて、一家の大黒柱になった。辞めたいと思うことは何度もあった。その度に祖父に切った啖呵を思い出した。
「3人は私が育てます。決して、離れ離れにはしません!」
いつしか自分を支える言葉になっていた。三姉妹は大人になり結婚してそれぞれの家庭を築いた。母は定年まで働き続けた。
18年前、母は突然、心筋梗塞で倒れた。2週間後、父の許へ逝った。69歳だった。亡くなる少し前、私たち三姉妹の顔を見ながら、母は言った。
「お父ちゃんが生きていたら、ずっと専業主婦だった。でも、働いたことで多くの人たちと出会い、いろんなことがあって、おもしろかった。家族四人が離れ離れにならなかった。三人娘がいるからがんばれた。ありがとう」
私は今、母と同じ会社で働いている。