【 佳 作 】

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
永遠のツアーナース
東京都 三木冴子 48歳

看護師というと愛と奉仕の精神に満ちた特別な集団のように思われやすいが、実は看護師には二種類いる。ひとつは、看護師になりたくてなった人。もうひとつは、看護を特殊なものとしてどうこうというのではなく、とにかく人として自律するために看護師になる人。

自律というのは、不景気の時代に確実に職を得て経済的に自活することだけではない。

「私が子供の時、親をあてにできなかった。自分の悩みを口に出すこともできなかった。自分の身を守るのは、自分しかいないと悟った」と言って看護師になる人もいる。私の場合もそれに似ている。

親は子供に、「手に職」をもち安定してほしいと願う生きものだ。しかし、子供を想う純粋な気持ちがあっても、子供に気を使った言い方ができないのもまた、親というものでもある。父は私に言った。

「所詮お前は愛想もよくないし、どうせ結婚もできないだろうから、看護婦なんていいんじゃないか。歳をとっても、OLみたいに煙たがられずに一生食べていけるからな」

私は子供のころ、構音障害があった。「ち」とか「し」という「い行」の音をうまく発音できず、笑いものになるうちに、余計なことを喋らず他人に同調する習慣が身についてしまった。

いつも細心の注意を払って他人の顔色をうかがい、びくびくしていた。だが、外側は能面のようだった。怖くて表情を出すことができなかったのである。この「何を考えているのかわからない子」というイメージが、かえって親を焦らせた。

実は、「大人になったら何になりたいか」ときかれたときに、私の答えは「せめて普通の人間になりたい」だった。委縮せず生き生きとするとはどういうことなのか、わからなかったから知りたかった。

あえて言うなら、学校の先生がいちばん身近で安心して話ができる大人の職業だった。当然、親は私にこの仕事をさせたくなかった。おどおどした私が壇上に立って、恥をかくのは確実だからだ。

一方、私には自分と同じような弱い人間とわかりあえる自負があった。そういうこともあって看護短大に入学した私は、一見親の理想にかなったように見えていただろう。だが、私は誓っていた。

「あんたたちのような『所詮』とか『どうせ』とか、他人にそういうふうに言う人間に、私は絶対ならない」

案の定、わけありの幼少時代を送った形跡が私にはにじみ出ていたようだ。それが弱者である患者と波長が合う時もあれば、上げ足をとられることもあった。

ある日、ストレス性の病気で入院した思春期の女の子が、私を見透かしたような口調で言った。

「私は親にやさしくされなかったからこうなったの。どう?かわいそうでしょ」

看護師をしていると、人間の黒い部分も見えてしまう。陰でこぶしを握ったこともある。だが、特殊な悩みごとは部外者には理解されないもので、親にも、「そこを我慢するのがお前の仕事だろう。働かせてもらっているだけありがたいと思え」といわれるのがおちだった。

短期大学程度の知識では、仕事をこなすうえで限界が明らかだった。私は大学に進むべく、田舎から上京した。

社会に出て一定の責任や裁量権をもち、それなりに事を成し得て評価されると、私のような人間でさえ自信を持ち始めるのである。こういう経験を積むほど、私は人の変化を信じる教育職に確信を持たざるを得なくなり、必然的に、教育心理学に進むことになった。

両親には内密、家出同然の形で夜行列車に乗り込んだ。「リーダーシップ」という言葉とは全く無縁だった私が、自分が動かなければ何も始まらないと思った。そしてこれ以降、「旅立ち」という響きのよい言葉がだてにあるわけではなかったことがわかった。

ツアーナースとは、旅の緊張感を味わいながら小中学校の移動教室に看護師として同行し、教育に携わる仕事だ。看護師の傍ら派遣として働いているとはいえど、この仕事には私の過去のすべてが集約されている。

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