【 佳 作 】

【テーマ:仕事・職場から学んだこと】
次世代と接してみて考えたこと・学んだこと
北海道 竹ヶ原康弘 40歳

この春から、ご縁を得て母校の非常勤講師を務めている。それまでは無職であった。なぜ無職であったかといえば、前の勤務先で長時間労働での過労を起因とした病気に罹ってしまったのである。治療のために1年半休職したが回復の見込みは無く、復職を考えると症状が重くなることもあり、退職を選んだ。

幸いにも病状は回復に向かい、かかりつけ医から軽い労働をしてみてはどうか、という勧めを受けられるようになったタイミングで講師のオファーが来た。大変幸運な巡り合わせであった。

いざ講師として教壇に立ってみると、自分たちの学生時代と比較して、学生が真面目に講義を受講していることに気付いた。自分たちの頃は、講義をサボる、中抜けをする、携帯プレーヤーで音楽を聴く、と「したい放題」であった。だが、自分の頃から20年を隔て、過去のその光景に出会わないのである。過去の自分を反省すると共に、現在の学生たちに感心した。

だが、いざ講義に入ってみると、学生からの「手応え」にかなりの個人差があることに気付いた。中学・高校で習得して居るだろう単語を用いて説明をしていても、始めて聞いたような顔をしている受講生が若干名居るのである。そこで、数人の学生に話を聞いてみると、「習っていない」と言う。詳しく話を聞いてみると、高校のカリキュラムの関係だという。今の学生はちょうど「ゆとり教育」の世代であり、「ゆとり」前後と授業の内容には差がある。事情は把握できたので、授業者の側で補える事項は補いつつ講義を展開するようにしたが、そうした日々の中でふと不安になった。

その不安とは、将来、この世代は周囲からどのような評価を受け、30代・40代の時間を過ごして行くのだろうという事だ。彼らは「ゆとり教育」の世代として生まれてきたかった訳でも、「ゆとり教育」を受けたかった訳でも無い。だが、これから彼らはそのレッテルを背負って生きて行かねばならない。そんな時、職場や社会は何をすべきなのだろうか。その選択肢が彼らを排除することであっては決してならない。問題は彼らに起因していないからだ。「労働」とは、個人の持てる「能力」を注いで価値なり何らかのモノを生み出すことであろう。その「能力」を束ねたものが「国力」である。「国力」を維持してゆきたい、或いは上げたいというのであれば、彼らの「能力」をサポートして行くことが不可避であろう。

幸い、管見の限り「ゆとり世代」の彼らは正直で真面目である。彼らの「労働」で良い何かを生み出すためには、同僚一人一人が現状を理解し協力しあうことが必要であろう。さもなければ、不必要な人間関係の摩擦が生じたり、自分のように疲弊して労働困難になる者も現れたりしよう。

現況、日本社会は労働者に対して冷淡に見える。だが、それでは近い将来日本全体が行き詰まってしまう。漠然と日本社会のあれこれを見ていると、個の力に期待し、育て、国全体を豊かにして行くという機会は今を逃すともう巡ってこない。そんな気すらする。今こそ、若い世代をサポートできる体勢――例えば、大学院生の優先採用や、リカレント教育の重視――を調えるべきではなかろうか。そして、これは「ゆとり世代」以外の世代にも益があると考えられる。当該世代をフォローするために他が疲弊しては全体の生産力は下がってしまうだろう。かといって排除することはあってはならないし、人手不足からの過重労働の要因になってしまう。

現状は現状である。いかに全体の生産力を下げず、次世代へバトンを繋ぐかを考えれば、当該世代の「能力」育成サポートが現実的であろう。

仕事・職場から「学んだ」というよりも、「気付いた」「考えた」といった内容に終始してしまったが、教育現場で次世代と接するうちに問題に気付き「学んだこと」として、些か私見を述べさせていただいた次第である。

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