【 入 選 】

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
ある転勤族のほいくし
東京都 しろせんせい 49歳

「え〜東京へ転勤?!」年度末のある日私の携帯に留守電を残していた夫。「まだ内示前なんだけど・・4月から東京の本社に転勤になった」晴天の霹靂!「わが家は転勤族なの」と他人にはよく言っていたが、結婚してこのかた移動したことは無い。子どもたちは岐阜で生まれ野原を駆け回って育った野性児だ。(うわーどうしよう)と転勤族としての覚悟が無かった自分に妙な笑いさえ起きた。

その頃私は保健センターで、乳幼児健診やことばの教室など保育士として働いていた。信頼できる仲間、大変だけどやりがいのある仕事、満足していたし、誇りを持っていた。
「急過ぎるよ」帰宅した夫に言うと、困った顔でただ黙るだけ。「あの子たち中2と小4だよ。私の仕事はどうする?急には辞められないよ。家だって買ったし」あとからあとから、ついて行けない理由が口から出てくる。凄く嫌な女、どこかで自分を冷ややかに見ている私の声がした。

結局4月に先に転居した主人の毎夜のラブコールに根負けして、中2の長男が「東京行ってもいいよ」と折れた。「嬉しい」と電話越しに喜ぶ夫の泣き顔が見えたようだった。

夏の東京は暑く、山に囲まれたんぼに蛍が飛び交うような前地とは違う。バタバタと決めた引越先は落ち着いた街で、小学校の転校初日、同じような転校生が5人もいた。都会って、本当に人の動きが多いわ、と驚いた。

子ども達の新しい学校生活が心配で、引越の片づけをしながら、学校から帰るのを家で迎え、変化を観察しようと気負いながらも、どこかで(あの子たちは大丈夫)と変な自信があった。10日くらいして段ボールの箱が少なくなった頃、小学校から帰宅した次男が「母さん今日も仕事無いの?暇だね」(はぁ??あんたたちが心配で家にいるんでしょうが。引越の荷物誰が片付けたと思ってんの!)怒れるやら呆れるやら、安心したやら。
上の子の中学は荒れていたけど、友人も出来てなんとなく居場所が出来つつある様子。
(そろそろ私も動き出すか。)

免許は保育士・幼稚園教諭・なんと宅建もある。でも履歴書に並ぶ経歴は子ども関係の仕事ばかり。求人は無かったけど、ダメもとで市の保健センターに行って、履歴書を渡してきた。
岐阜での仕事は市役所に勤める友人の紹介だった。それも狂犬病の注射のお手伝い。ちょっとおもしろいと思って引き受けたら、重宝がられて、いつしか保健センターで保育士の採用枠を作ってくれた。そう上手くいかないよね、と思いながら他の仕事も探した。少しして保健センターから声がかかった。月2回の午後。賃金は少ないが、ここで子育てをしていない私には、東京の健診事情を知る良い機会だ。乳児健診では、月齢に合わせた本を読み、親子遊びを紹介。だが田舎と違い健診に来る親子の数は半端ない。名前を呼ばれると遊びの途中でも別室へ。じっくりと親子に向き合っていた、以前の職場との違いにカルチャーショック!!

同じ頃、子ども家庭支援センターの仕事も決まった。保健センターの仕事と並行して続けることが出来る条件だ。赤ちゃんから幼児までの子どもやお母さんと交流が出来る。親子遊びや工作、子育ての相談にのったりして、子ども達の成長を見守る仕事。やっぱり子どもたちの笑顔が見られる仕事が好き。そう実感した。

転勤族らしく東京へ移ってこの夏で9年。大学生になった次男が「いいよなぁ母さんは。赤ちゃんと遊んでお金もらえるんだから」とほざく。「まぁね。どこでも必要とされれば、ちゃんと働けるんだよ」

「子育ては、大変だけど楽しいよ」そう出会ったお母さんたちに伝えたいと思えるのは、きっとあなたたちのおかげだね。

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