【 入 選 】
子育てのわずかな期間、仕事を辞めた。第一線でバリバリ働く友人たちの活躍を小耳にはさみ悶々とした。この時期こそ充電期間であると自分に言い聞かせた。サラリーマンの夫との擦れ違い、三交代の看護の仕事と子育てに自信がなかった。結婚と同時に、北海道から大阪に転居した。系列の病院に転勤、新婚生活と新しい職場と気候の変化に体が悲鳴を上げた。共働きにあこがれていたので頑張ったが、出産後、体調を崩した。予期せぬ事態は起きるものであり、静かに受け入れた。
子供と公園で遊び、その親と仲良くなる。子供の社会性を磨くと称して実は自分自身も友達を作った。遊びを通したしつけも親の務め。親が手本を見せることが多い。「おはようございます」と大きな声であいさつをする。家に帰ると、「ただいま」「だあれもいないね」「手を洗って、うがいもね」「うわあ、上手に洗えるね」「靴は並べたかしら」など会話が弾む。それだけで達成感があり、元気になった。私の体も除々に回復した。三人の息子たちは、歩いて通える幼稚園を選んだ。往復手をつないで毎日アリや草花の発見を楽しんだ。花の首飾りを作り、お父さんにプレゼントした。チューリップを見て、「さいた、さいた」と歌った。幼稚園であったことを子供が口角に泡を出して話すのをきいた。それを夫に夕食時、幼いながらもしっかり話せるのは素晴らしいと思った。お茶碗洗いをしたいというと、夫はホームセンターに行き、木材を購入、踏み台を作った。「お父さん、頑張って」と応援した。二つ作り、みんなが使えるようにした。リンゴの皮むき大会をしたことがあった。負けず嫌いの二男は負けると、目に涙をためながら「今度頑張る」という。それを見ていた長男が「もう一回、バナナの食べ比べをしよう」と名案を提供してくれた。その時はフルーツポンチに入れてしまったので、また今度となった。涙を出した弟の気持ちを考えられる長男の発想に感謝した。家庭で楽しさやくやしさを経験できることは素晴らしいとそのとき思った。
夜、子供たちを成長ホルモンの十分出るまでに寝せると、そのあとは自分磨きの時間である。社会進出のチャンスはいつでもある。とうとうその時が来た。若いときに、資格を取得していれば利用できる。私は幸い看護士の資格で訪問介護の事業所に勤務した。介護の指導を行った。その後、介護保険が始まるときに介護支援専門員の資格を取得、つい最近まで居宅介護支援事業所の所長を勤めた。
忙しく働く私たち夫婦の姿を見て、「お母さん、冷蔵庫に夕食の材料を入れてくれたら僕たちが作るよ」と。夜中に帰宅すると、テーブルにラップをした夕食が二人分並んでいた。そおっとチンをした。胸がいっぱいになり、涙がこぼれた。ちょうどみんなは大学や高校の受験で心に余裕のない時期だった。申し訳ない思いの日々数年が続いた。進路や修学旅行の説明会などは出席できなかった。「先生の話をよく聞いて、わからないことは質問してね。大事な時に、学校に行けなくてごめんね」「大丈夫だよ」と子供たちに言われて、逆にあてにされていないのかなあと思った。息子たちのそばにいたら、「勉強しなさい」とガミガミ言ったと思う。子供と離れる良い機会であった。夫が会社を立ち上げたとき、無給の時が数年間あった。学校から給食費が引き落としになりませんとの封筒を二男が持ち帰った時には驚いた。あわてて翌日学校に支払いに行った。そのおかげで、高校では、一年間だけ二男は育英資金を受けた。本人が言うには「中学校の成績が良かったから、返さなくてもよかったありがたいお金だった」と。みんなでお金の大切さを学んだ。
子供達と苦労やさみしさや楽しみを味わうことができた。家族の和、協力があって初めて私は仕事に打ち込めた。家族に感謝したい。人生の充電期間は無駄ではなかった。