公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞
大学を卒業して、神奈川県の小学校教師になった。教師になるのは小さい頃からの夢だったが、結婚を機に神奈川県教員を退職し山梨県へと引っ越した。その後、母となってからも教えることから離れたくないと思い、家庭教師の仕事をした。一日2時間程度だったが、その時間は私にとって緊張感のある素敵な時間になった。育児も立派な仕事ではあるが、それだけでは社会から切り離されているような孤独感があった。家庭教師として働いたことで、社会に自分が必要とされていることや自分の存在感を感じることができた。
10年ほど経ったある日、新聞で「40歳目前にして教員採用試験に挑戦」という東京の人の記事を読んだ。ほぼ同年齢の人が、試験勉強をして合格を目指そうとしていることに驚いた。何かを始めるのに年齢は関係ないと思った。その数日後「山梨県教員採用試験受験年齢制限が10歳上がる」という地元新聞の記事を見た。私の心は「もう一度学校で教師の仕事をしたい」と大声で叫んだ。家族の協力もあり、無我夢中で試験勉強をした。試験に合格し、改めて小学校教師となり、夢を再スタートさせることができた。
私は、改めて教師になった時に「教え込むことを極力しない教師」を目指そうと思った。育児を通して、子どもは好奇心旺盛でやる気に満ち溢れていることを知っていたからだ。子どもたちの考えに対し「ふうん」「そうなんだ」「すごいね」「なんで」という言葉をふんだんに使い、話し合いを通して自分たちで考えさせるような授業をしたいと思った。そして、実際になるべく教師が結論づけない授業を日々実践してきた。それが功を奏してか、学習であれ生活であれ、話し合いや集団生活を通して様々なことを考え、判断し、大切なことを身につけようとする子どもたちが数多く育った。間違いを恐れず経験し、受け入れ、次にはそれが訂正されていく。それが、実にスムーズなのだ。大人は、間違いを受け止めることができなかったり、新しいことを受け入れられなかったりすることが多いのに、子どもたちは何としなやかで迅速なのだろうと思った。子どもたちの成長を見ながら、自分も成長していくのがわかった。また、子どもたちだけでなく、保護者・教員同士・地域の人たちとのコミュニケーションや触れ合いを通して、人に磨かれながら自分も成長していった。
そして、今年の3月、小学校教師を定年前に退職した。理由は、仕事を通してこれからも成長し続ける自分でありたいと思ったからだ。先ずは、かねてからの自分の夢だった童話を書きたい。そして、それを本にして出版したいと思っている。もしもその一部が教科書に載って、全国の子どもたちに読まれるようになれば、教師として成長してきた自分の一区切りになる。また、私は定年のない仕事に就きたいとも考えるようになっていた。自分の責任で自分と「勝負」し、自分をどんどん伸ばしていける仕事に。退職当日、勤務していた学校を去る時に、教え子たちがたくさん集まってくれた。小学生はもちろん、中学生や高校生になった子どもたちもプレゼントを持って来てくれた。私に「先生に教わってよかった。私たちも頑張るから先生も頑張って夢を叶えてください」とエールを贈ってくれた。最後の最後まで、子どもたちに教わることが多かった。いつか、私の教え子たちに自分の生き方を伝えられる、そんな人生の教師でありたいと思う。
「教師」という仕事は、私の人格を作り、私の人間性を高め、私の人生を豊かにしてくれた。さらに「人生はチャレンジすることだ」と気づかせてくれた。「教える」という仕事は、実はいろいろなことを「教えてくれる」仕事だったのだ。
教師を退職した今、私はまさに新たな一歩を踏み出そうとしている。どこへ行くのか、一番楽しみにしているのは私自身である。