厚生労働大臣賞

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
聴力を失って知った私の仕事・働き方
宮城県 東方晴彦 72歳

忘れもしない。私は全ての聴力を失った。教員を定年退職してわずか3年後の正月だった。運の悪いことにどこの医療機関も休業中で、搬送されたT大学病院でさえ担当の医師が不在だった。突発性難聴――。原因も治療法も未だ見つかっていない難病の一種だ。

なぜ?どうして?退職後も講師として採用され私は順調な日々を送っていた。

病院のベッドの中で懸命に耐えても涙が止めどなく流れて出て頬を濡らす。布団に顔を押しつけ声を殺して堪えた。「無理に我慢しないで声を上げれば楽になるのに」見舞いに来た妻が言った。帰った後あたり憚らず声を上げて泣いた。

静寂な音の無い世界。耳の聞こえない者に教師の仕事が勤まるのだろうか。ずっと後になっての事だが、言葉の発声も所謂イントネーションが以前と明らかに違っていて、聞き取り易い発声もできなかったと家人が述懐している。講師として復帰するのは到底無理だろうとその時は思っていた。

不遜な事に正直に言うと、若い頃から教員は夢実現のための一時的な、言わば仮の職業くらいに考えていた。私には中・高生の頃から憧れていた職業があった。あまりに現実離れした職種だった。家族は元より周囲から理解して貰えず、かと言って我を通すほどの勇気も実力も無かった。だから退職後にはその夢を叶えたいと密かに思っていた。それだけに新米教師の頃は中々職場に馴染めず苦労の連続だった。それでも石の上にも三年というか、その後の継続や繰り返しによって「天職」と言えるまでに変容していた。

一身上の都合により退職したい旨の退職願いを書き、後事を妻に託した。応対した校長はただ「仕事は心配せず治療に専念を」とだけ言い、その報告を訝る私へは「一日も早い回復を祈っています」と付け加えたという。

最新の治療の甲斐あって聴力は正常の半分位までに回復した。陰で支えてくれた家族の力も大きい。真近での会話は何とか可能でも、少し離れると流暢な対話は成立せず補聴器が必要な身となった。復職は諦めよう。

退院後、挨拶に伺った私に校長は言った。「ぜひ今回の経験を生かし生徒達に人間として最も大切な事を教えて下さい」と。感謝しつつも自信を失い躊躇する私に校長の熱意が直に伝わって来た。――ハンディが生じたからこそ出来る教育がある。ここで逃げたり諦めたりしたら教師失格と言われても反論できまい。人間はたとえどんな状況に陥っても輝ける事を教えてやらねばならない。再度教壇に立ちたい願望も心のどこかにあった。

私に残された年月は短いかもしれないが、今からでも遅すぎる事はない。情熱と体力があれば不可能な事はないだろう。復職した最初の授業。生徒たちは拍手で迎えてくれた。

これまでの経緯と自身の身体状況をはっきりと私は伝えた。勿論、感謝と詫びの言葉を添えて。「先生、何も心配いらないよ。皆でおっきな声で話すから」屈託のない笑顔で励ましてくれた生徒たち。私は心が洗われる思いだった。一度は断念した教職。私が再び「仕事・働き方を決めたきっかけ」それは背中を強く押してくれた校長の熱意とそれを後押した生徒の理解と協力のお陰だ。「キミはこの職場にならなくてはならない存在」。人は生涯においてこの言葉を何度かけて貰えるだろうか。障害者と健常者。これまでの私はどこか思い遣りが足りなかった。互いに理解し合える心を育てる――。大きな使命ができた。

今やらなければいつやれるだろう。現在は何かと個性やスピードが問われる時代。私自身何が良くて何が悪いのか戸惑う時がある。

昔の美しい日本人の美徳は一体どこへ行ってしまったのだろう。せめて素直に「ありがとうございます」「ごめんなさい」を自然に言える生徒を、これを機に一人でも多く育てたい。微力ではあるが私は新たな仕事に向かって踏み出した。

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