【 努 力 賞 】

【テーマ:非正規雇用者として】
時給750円の豆粒
鳥取県 錦織 マコト 30歳

アベノミクス、という言葉をニュースキャスターが口にするようになって、かれこれ数ケ月が経つ。日本再建、とは言いえて妙だ。「国」というひとつの大きな家には致命的なボロがきているようで、いっそイチから建て直しを図るべきなのは、もはや誰の目にも自明なのだと思う。

国を支える柱。それは間違いなく国民一人ひとりだ。空撮すれば豆粒のような一軒一軒の家に人が生きていて、そのささやかな営みの寄せ集めが国を形成している。そしてその豆粒のひとつとして生きる私は、かれこれ10年ほど、いわゆるパートとして生活の糧を得ている。思えば社会人としてのほとんどがパートだ。

一時間750円。労働の対価としては決して高くない賃金ではあるが、それでもどうにか生きていくだけの収入にはなる。しかし、預金口座の残高には10年働いたにしてはあまりに貧相な貯蓄額が記載されていて、嘆息が漏れる。考えなしの散財をしてきたわけでは決してない。しかし、現実の貯蓄は中古の軽自動車すら一括で購入できないほどのもの。預金通帳とにらめっこをして、私は今日も自転車にまたがって職場へと向かう。

社員とパート。正規社員と非正規社員と言い換えることができるその言葉は、実際の言葉以上に社会からの待遇が違う。雇用主によって事情は異なるだろうが、私の職場においては歴然の差がある。その中でも一番納得がいかないのは、やはり労働力に対するもっともわかりやすい対価―賃金についてだ。

これはほとんどの職業にいえるのかもしれないが、社員とパートだからといって従事する業務に大差はなかったりする。しかし、ほとんど同じように働いても、得られる賃金には明確な差が生まれる。社員とパートでもそうだが、高卒と大卒でもけっこうな差があるらしい。働く量に差はないというのに、だ。

たとえば、新入社員がいるとする。10年働いていることもあり教育係になることが多い私だが、仕事を教えてあげたり、色んな―実務面でもメンタル面でも―フォローをしている私よりもはるかにその新入社員の賃金が上なのだ。何故なら社員とパートでは会社的に待遇が違うから。どれだけ仕事ができるとか、人間関係に骨を折っているとかは評価として数値化されない。重要なのは、「社員として働いているか」と「パートとして働いているか」の違いだけなのだ。それによってのみ社会は我々を分類する。

首をかしげてしまう。何も賃金を倍にしろ、なんて要求をするわけではないが、もう少し賃金を引き上げてくれてもいいのではないだろうか。そもそも先進国といわれているくせに、一時間数百円で人を働かそうと考えるのは傲慢ではないか。最低限の文化的生活水準を保つための「生活保護費」よりも低い「最低賃金」は、誰を守るための概念なのか。だったら「生活保護費」を下げよう、不正受給もあるし、と考える常軌を逸した理屈。そしてテレビが教えてくれる公務員のボーナスは私のささやかなボーナスの十倍以上の高水準。かしげた首が戻る日は一体いつ来るのか。その前に、かしげ過ぎて折れてしまうかもしれない。

先日、厚労省が企業に対し賃金の上昇を強く打診する旨のニュースを見た。過去に何度も見てきたニュースだが、いい加減今度こそは目に見える形で実現してほしい。アべノミクスの整合性を堅持するためにも不可避なのは明白だし、なにより先行して物価が上がってしまっているのだ。「やっぱり見送ります」ではもう生活が成り立っていかないところまできている。

一時間働いてもパンひとつ買えない時代が来る前に、豆粒のひとつとして実感の伴う「景気の回復」を早急にお願いしたいものである。

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