【 努 力 賞 】
道路で物を売る子どもたちを果たして日本の子どもたちは見たことがあるだろうか。家族を支える、その為に学校にも行かず必死に道端で物を売る人たちを果たして日本の若い人達は見たことがあるだろうか。
小さいころ東南アジアに住んでいた私はその様な光景をよく見てきた。
マニラに行った時、車が行き来する道路の真ん中を小さい子どもたちが首に様々な小物を下げて売り歩いていた。一時停止する車の窓をたたき、切実な目で「これを買ってくれないか」と聞いてくる。カンボジアに行った時もそうであった。歩いていると、小さい子どもたちが物を売っている。当時、小学生であった私は最初驚いたのを覚えている。私と同じ歳くらいの子どもたちが炎天下の中、自分より年上の観光客や通行人を相手に働いていたのだ。現地の人々に聞いてみると、それは当り前の光景なのだという。私の仕事に対する意識は変わった。
海外に行く前は「仕事」というものは、大人になれば当り前に訪れて、働くということがそれほど特別でないことに思えた。小さい頃の意識だったから仕方がないことなのかもしれないが、私は「仕事」に対してそのようなイメージしかなかった。平和で、ある程度国民の生活が安定している日本で育ったからこその考えであったのだろう。海外に引っ越したことで私の考え方は大きく変わった。
マニラで必死に働いていたあの少女たちは今日を生きるために必死であった。幼稚園生くらいの年齢の子どもが真剣な目をして大人たちに交渉していた。彼らは、私と同じ歳、いや、私より年下の子もいたのにもかかわらず、「仕事」、自分の「生活」に対して真剣に考えていた。彼らにとって「仕事」とは「生きる術」であり、幼少期から周りの大人や子供たちをみて学んできたのであろう。英語を初めとする色々な国の言葉を使い分け、働く彼らの姿は「大人」と変わらなかった。
私は自分の未熟さに愕然とした。私はそれまで仕事に対して真剣に向き合ったことがあったであろうか。仕事というものは「みんながやっているからやる」という人生において誰もが通る道程度にしか考えたことがなかった。しかし、東南アジアで出会った子どものお陰で私の仕事に対する意識は大きく変わった。仕事とは、自分の人生に関わることなのだ。真剣にやらなければいけない、どんな仕事であっても向き合っていかなければならないことなのだ、と気付かされた。
私は今の日本の教育に異議を唱えたい。「仕事」という事をもっと真面目に若いうちから考えるべきなのである。世界で必死になって働いている人々のことを教えるべきである。子ども達だけでない、日本の若者はもっと仕事に対する意識を高めなければならない。近頃、どんなに生活が良いとは言えない学生も「満足感の得られる仕事がない」「自分をまだ探している」などと、仕事に対する態度が甘い様に見受ける。よって「賃金が安い」などの理由で働く事を拒む人々がいるがそれは、この日本の「平和」、いや、厳しくいうと「甘い」態度から生まれたのであろう。「仕事」と「命」の関係を知っていたら、必死になって例えどんな仕事でも拒むことはないはずなのだ。
我々、日本に住む若者はもっと「仕事」に対して、真剣に考えるべきである。東南アジアにすむ幼き子どもの方が現代の日本の若者よりも「仕事」と「命」の重い関係を理解している。仕事とはなんなのか、それを今の若い人々にもっと考えてもらいたい。その為には世界に目を向けるべきなのだ。海外の華々しい点ばかりに目を向けるのではなく、海外の静かなところで苦労している人々に目を向けることで、自分の人生観が変わるのではないだろうか。