【 努 力 賞 】

【テーマ:私の背中を押してくれたあの一言】
父無職と言わせないで
岩手県 iwate駒 67歳

就職して10年ほど経った28歳の時でした。足の筋肉疲労の回復が遅いので診察を受けると、治療法が無い難病の筋ジストロフィーと診断された。体中の筋肉が衰え、やがてはひとりで何もできない寝たきりや、呼吸困難の症状を引き起こす進行性の重篤な疾患だった。

青年期に発症するこのタイプは、手足の筋力が徐々に奪われるため、仕事や家事を続けることを困難としている。病気の宣告を受容できず、何か所もの病院を巡り治療法が無いとの診断に、絶望や生きがいを失い、仕事が無理と早々に退職している人もあった。

進行性筋ジストロフィーとはどの様な病気なのか理解できず戸惑い、将来への不安で悩み苦しみました。子どもたちはまだ幼く、病気を理由に子育てを諦めることはできなかった。

たとえ病気治療のため仕事を休んでも、体が元に戻る保証も無く、再就職の道さえないと思った。筋力低下の緩和できる対策の一つとして、リハビリなどで体を動かすことがあり、仕事を続けることこそ大切だと思った。できる限り仕事を続け、障害の進行と競争する道に賭けることとした。徐々に進行する筋力低下に、自分の精神力がどこまで耐えられるのか不安もあったが、障害を抱えて仕事を続ける自分との戦いでもあった。

床の段差に躓いて転び、和式トイレから立ち上がることが出来ず助けを呼んだこと。朝出勤した職場の階段を突然上れない時もあった。手すりに掴まり、四つん這いになって上ったことなど辛く悲しいことが思い出される。

「無理するな、休め。治ってからまた働けば良いのに」と、その姿を心配した同僚は声を掛けてくれたが、辛い一言だった。入院してもこの症状の回復は無い。病気の理解が得られないことから、無謀な行動にしか映らなかったのだろう。

今できることに最善を尽くすことを心がけた。石川啄木の歌「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」の歌を思い出し、心の支えとした。

職場ではスロープや車いすトイレの設置、私の働く場所を一階にする配慮もあった。積雪と路面凍結する冬場は通勤が困難だ。同僚らは駐車場所の除雪などの協力があったお蔭で、休まず通い続けることができ感謝している。

不自由な体のため差別や格差もあり悔しい思いもした。でも、自分が得意とした仕事の分野ではみんなに信頼され、不自由になっていく体を労わってくれる喜びもありました。

身体障害は杖歩行から車いすを使用する重度身体障害者となり、働き続ける体力的な限界が幾度となくあった。娘には大学進学の際「何時でも辞めて良い」と約束をした。しかし、卒業間近になると「就職試験の面接に、父無職と言わせないで」「私の就職が決まるまで頑張って」と、子どもから励ましの言葉が返ってきた。

この言葉が仕事を限界まで続ける原動力になった。定年まであと8年の52歳の春、娘から卒業と就職決定のお知らせに喜び、安心して退職することができました。

残された機能を限界まで活かし、働き続けた達成感は格別な喜びと懐かしい思い出であり人生の宝物としている。

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