【 努 力 賞 】

【テーマ:仕事から学んだこと】
「信用」という財産を築こう!
岡山県 岡 國太郎 64歳

私は瀬戸内の造船所の一人息子として生まれた。しかし父はことあるごとに「お前の人生だから、家業に関係なく好きな仕事をやればよい」と言ってくれていた。そんなこともあって大学は造船とは畑違いの農学部に進んだ。1年の留年を含む5年間の学生生活を謳歌できたこともあって、卒業後は尊敬する父の片腕になろうと決意し、帰郷した。造船については全くの門外漢だったので苦労はしたが、中学校までの基礎学力と向上心さえあれば道は開けることも体験した。

3年が過ぎ造船技術の知識も身につき何とかやれそうになった頃、オイルショックによる造船不況の波に襲われた。出血受注を余儀なくされる状況が続き、会社はたちまち火の車状態となった。だが父は「安かろう、悪かろうの船は作るな。船は人の命を運ぶものだから」と言い続ける一方で膨らむばかりの負債と今後の対策に胸を痛め、心労がたたり肝臓がんで入院し死去した。父が死ぬ間際に会社は倒産状態となり、私的整理のための債権者集会を私の名前で招集する羽目となった。集会の前日、銀行の関係者から「当日は、黒い背広を着た人たち(つまり暴力団関係者)も同席することになるだろうから覚悟しておくように」とのアドバイスもあった。針の筵となる債権者集会を前にして、「なんで息子の俺がこんな目に遭わなければならないのか」と父のことを恨んだものだ。

債権者集会当日のことである。幸い心配していたその筋と目される人の姿はなかった。債権者集会の冒頭に倒産状態にいたるまでの経緯と今後の見込みをしどろもどろ状態で説明し、理解と協力を求めた。心なしか足下が震えるような感じだった。説明のあとは債権者からの質問の時間だ。胸をえぐられるような質問が矢の如く飛んでくると覚悟をしつつ、「質問を受け付けます」と伝えた。すると一人の債権者が手を挙げ発言を求めた。
「自分らのような小さな債権者がどう考えようが、大手債権者の意向によって決まることになる。最大の債権者であるA社さんの意向を伺いたい」
それに応じてA社の顧問弁護士が立ち上がり
「私たちは皆様方の意向に即して対応するつもりでここに参っています」と述べた。すると最初の質問者が立ち上がり大声で言った。
「ほんなら決まったも同じやないか。今まで永年にわたり我々は先代の社長からお世話になったのだから今回は我々が協力する番やないのか」と。すると、場内はバチバチと拍手が起こり会議はそのまま終了することになったのだった。「地獄で仏に遇う」とはこのことだと実感した瞬間だった。

またこんなこともあった。債権者集会は無事終了したが、問題は船を建造するための鋼材を入手することだ。鋼材が入手できなければ船の建造はおろか再建の道筋が狂う。倒産状態で新規納入する業者があるわけがない。そこで取引先の鋼材商に出向くことにした。その鋼材商は、「大阪の三ケチ」と評されるほどの商売には厳しい人物だった。社長室に通されると、初対面の私の顔を見るなり
「おととい出直せ!今までの代金をすぐ支払え!」と、けんもほろろで席を立ってしまった。ところがしばらくして戻って来て、うつむいて座っている私に向かって
「あんた○○はんの息子か?」と父の名を挙げて穏やかに問いかけてくる。
「そうですが・・・・」と応えると
「あの人は、えー人やったなー!ソロバンはできんかったけどな」とひとこと。そのひとことから、難航していた鋼材入手が実現でき、再建の道筋も見えてきたのだった。

その後も苦労はしたが10年後に負債は完済できた。その原動力となったのは、こうした二度にわたる「地獄で仏」の経験で初めて知った父の「信用」という名の遺産の大きさにほかならない。

時代はめまぐるしく移るが、次世代を引き継ぐ若者たちが、「金」という目に見える財産ではなく、目には見えない「信用」という財産に目を注いで働き、こころ豊かな人生を紡いで欲しいと強く望む今日この頃である。

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