【 佳 作 】

【テーマ:仕事から学んだこと】
命を救う仕事は、命をかけること
大阪府 笑う希望 60歳

医学部を卒業した私は、小児科を選んだ。この時点では小児科がどんなものか全く理解していず、F県の病院の小児科へ赴任した。そこは小児科医が7人もいる大きな病院で、患者数も多かった。赴任の挨拶をしている最中でも、緊急で状態の悪い小児が次々と搬送されてくる。高熱でぐったりした小児、下痢嘔吐で脱水が強い小児、痙攣を起こしている小児等、職場は戦場のような有様であった。それは正しく、病気との戦いであった。早速私も入院患者の主治医となり、慌ただしい日々が始まった。しかし、まだ技術も未熟で、知識も少なく、教科書と首っ引きで診療する毎日である。当然、先輩医師よりは処置も指示も時間がかかる。ある日、発熱と痙攣の乳児が搬送されてきた。一目で重症とわかる。検査の結果、細菌性の髄膜炎であった。この病気は細菌が脳に入り、後遺症も多い。大量の抗生剤、抗痙攣剤を投与し、全身管理をしたが、なかなか痙攣がおさまらないし、熱もひかない。小児科部長と相談し、副作用も出るかもしれない抗生剤の大量投与をすることにして、両親に説明した。両親が私の説明に納得してくれて、治療は夜からはじまった。私は徹夜で処置にあけくれた。幸いなことに副作用も出ず、その治療が奏功し、翌日には熱も痙攣も収まった。

ほっとしたのもつかの間、次の日には生まれたばかりの赤ちゃんが、発熱と黄疸で入院してきた。体重2000gの未熟児でもあり、リスクは高い。黄疸もほっておくと、脳に後遺症がでるくらいの高い値である。黄疸の軽減の為にすぐ全身の血液を交換する、交換輸血を数時間かかってやり、同時に大量の抗生物質を投与した。発熱の原因は細菌が全身に感染する菌血症であった。この日も徹夜になった。徹夜明けでも昼間の勤務は通常通りにある。重い体をひきずって勤務をこなした。その日の勤務が終わり、カルテ記載も終わり深夜になって今日は寝れるかなと思っていたら、緊急で腸重積の幼児が入院してきた。今日の昼まではなんともなく元気であったが、午後になって頻回な嘔吐、血便が出て開業医を受診した所、腸重積の疑いで紹介入院してきたものである。これは腸が重なって、ほっておくと腸が壊死を起こす。至急、整復の処置が必要である。幼児の肛門にチューブを入れ、バリウムを流す。現在は空気を入れるが当時はバリウムでやっていた。レントゲンを見ながら、整復を確認する。しかし脱水も強く、状態も悪かったので、呼吸困難をおこし、酸素を吸入しながら処置をした。この間、1時間くらいかかり幸いにも処置がうまくいって整復できた。その後親への説明や処置の指示等で結局また徹夜した。その幼児は入院して翌日には退院できた。走って退院していく幼児をみるのは、心から嬉しかった。

このように、小児科は悪化も早いが適切な処置で改善も早い。しかし、私は3日間徹夜が続き、命を救う仕事は、こちらも命をかけてやらなくてはいけない、と痛感した。これは私の技術が未熟な為、時間がかかったので、先輩医師は同じような重症患者をスムーズに処置していた。しかし、だんだん技術が向上するにつれ、また知識が増えるにつれ、処置が早くなった。20代の私は、社会の中で小児科医という仕事を通して、厳しいけれど社会貢献できる喜びを味わっていた。仕事は私と社会をつなぐ大切な絆であり、私が生きていく上での人と人との信頼関係の重要性を教えてくれるものであった。現在は60代の私は小児科からアレルギー科に専門を変えたが、小児科のような緊急性はないものの、重症なアトピー性皮膚炎の方々を心を尽くして診療する場は、人の幸せを担うことであると、仕事に医療を選んだことに悔いはない日々である。

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