【 佳 作 】

【テーマ:私の背中を押してくれたあの一言】
母の言葉には愛しかない
京都府 福宮 敦男 48歳

頸椎骨折のせいで、社会から離脱して20年が経った――。

今から31年前の高二の夏のこと、ふざけてプールに飛び込んだ私は、底で頭を強打した。首の痛みを訴えて受診した開業医が「異常なし」と診断したため、そのまま遣り過ごしてしまったが、それから10年後、どうにも身体が言うことを利かなくなり、別の病院を受診してみると、頸椎圧迫骨折及び椎間板ヘルニアが発覚した。首の痛みに頭痛、強烈な倦怠感は、それらが原因だと判った。
「事故から時間が経ち過ぎているので、手術はできない。こんなに骨が傷んでいるのに、神経症状がそれほどでもないのは不幸中の幸いだ。放っておくしかない」

大学病院をはじめ大病院をいくつも回ったが、言われることは同じだった。

頭が真っ白になった。医師は、患者の怪我や病気は診てくれても、患者の人生までは診てくれない。このとき私は27歳、人生これからというときだった。

間もなく勤めていた会社は辞めることになり、結婚間近だった女性とも別れた。実家に戻り先の見えない療養生活が始まったが、突如舞い戻ってきた息子に、父は冷たかった。
「馬鹿たれ。恥さらし。手術できないなら働け。働けないなら死ね。この穀潰しがっ」

いい歳をして養ってもらわねばならなくなった負い目から、私は何も言い返すことができなかった。連日の罵倒を黙って聞いているうちに精神は死んだようになっていった。更に怪我の症状も悪化の一途を辿り、徐々に日がな一日寝込むようになっていった。そんな私を励まし、父から守ってくれたのは母だった。
「大丈夫。きっと何とかなる」

何ともならないと分かっていたが、嬉しかった。母は自分自身にも言い聞かせていたのかもしれない。当時、50歳だった母は働けない私の替わりにパートに出た。最初の仕事は小さな菓子店の販売員だった。

医師に匙を投げられた私に希望はなく、無為に時間だけが経過していった。その後、定年退職し家に入った父は、私の顔を見る度に舌打ちした。
「チッ、お前の顔を見ていたらイライラして、こっちが病気になる」

更に時は流れ、ようやく私の難手術を請け負ってくれる東京の専門医が見つかったのは、実家に舞い戻って実に12年が過ぎ去った後のことだった。母が買ってくれたパソコンでその専門医に辿り着いた。チタンのボルトが骨折のため変形し湾曲した私の頸椎に何本も打ち込まれた――。

母がパートに出て、かれこれ20年が過ぎた。菓子店の販売員から八百屋のバックヤード、印刷工場の清掃員へと職を変えていった母。齢はすでに70となっており、いつの間にか曲がってしまった腰がひどく痛むようになった。悩んだ末にやむなく仕事を辞めた母だったが、すぐに原因不明の眩暈や蕁麻疹に襲われた。家には父がいた。家中ストレスだらけだった。母の不調は私のせいだ。

私が人並みに働いてさえいれば母はこんなに苦労はしなかった。穏やかな老後が送れたはずだった。何もかも自分のせいだ。何でもいいから収入を得て、早く母を安心させたい。20年も臥せっていたが、手術から8年、未だに患部の不安定感と痛みはあるものの、半日くらいならパソコンの前に座っていられるようになったではないか。

私は以前から思っていたことを照れながら母に告げた。

「作家にでもなろうかと思う」

笑われるかもしれない。その歳で今更何を言っているの、と。

でも、母は笑わなかった。

「何でも挑戦してみたらいいよ」

老いた母の目から涙がポロポロと零れ落ちた。堪えようとしても後から後から溢れてくる涙をどうすることもできないといった様子だった。胸が熱くなった。本当に長い間、苦労ばかり掛けてきたんだなと自省した。

作家の世界は厳しい世界である。成りたいからといって成れるものではない。それでも私は、「何でも挑戦してみたらいいよ」と言ってくれた、この母のために頑張ってみようと思う。そうだ、私にとって働くとは「挑戦」なのだ。

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