【 入 選 】
1999年の就職難と言われる時期に私は就職した。二流私大の1浪1留生には有名企業への就職という選択肢は初めから存在せず、入社したのはブラック企業として名を馳せるソフト会社であった。数百人の同期は入って数か月後に1/3は退社させられていた。それを免れた私もそこから2年近く、ファイヤープロジェクトと呼ばれる問題プロジェクトを転戦した。会社泊は当たり前だったので、ジャージ、歯磨き、バスタオル、寝袋と生活必需品はすべて机に入っていた。毎週の新聞に出ていた求人募集では平均年齢が低く元気な会社、若い人にもチャンスがある会社とうたっていたが、今から思えばそれは長く働けないことの裏返しであった。
5つのファイヤープロジェクトが終わったのち、ある外資系のプロジェクトに携わった。初めて関わった外資系企業はすごかった。仕事は時間的な自由度が高く、休日出社、残業はほとんどなかった。業務も責任もきっちり範囲分けされていた。オフィスの設備はきれいで、フロアも広く、居心地もよかった。海外研修もあり、長期休暇もとりやすく、給料も非常によいと聞いた。40歳に今までと同じ働き方はできないと思い転職も考え始めていたが、外資もいいかなとも思い始めた。
しかしある日の午後、突然正社員だけが集められ、厳しい選択を迫られるのを目の当たりにした。日本支社の業績は良いのだが、どうも本社の業績が良くないためらしい。外資系の厳しさをまざまざと見せつけられた瞬間だった。しかし、多くの人が暗い顔をしている中、涼しい顔をしている人たちもいた。確固たる技術やスキルを持っている人達だった。本を何冊も書いている人、会社と別に独自の開発チームを立ち上げている人、複数の圧倒的な語学力を持っている人。彼らはもし何かあっても次に行くところがすぐに決まることを知っているのである。その様子は雲泥の差であった。
それからというもの、そういう人が普段どこにいて、何をしているのか気になり始めた。注意してみていると意外にもそのような人はどこにでもおり、驚くべきことに自社の中にもたくさんいた。MBAを取るため夜間大学院に通う人、論文を学会で発表している人、必要な人脈を広げている人、資格を取り企業のコンサルタントを行っている人、NGO団体を立ち上げている人など気がつけば彼らはどこにでも存在し、彼らは例外なく努力を惜しまなかった。休みの日、夜遅く、朝早く、睡眠時間を削り、人知れず努力していた。体を鍛え、自分で考え、常に情報のアンテナを高く伸ばして、必要なことを黙って実行していた。
私は所属している企業がブラックかホワイトか、外資企業か国内企業か、大手か零細かは関係ないことに気が付き始めていた。自分が外国人か、日本人かも関係なかった。働くことはシンプルに誰かに必要とされることであり、誰かに必要とされるためには誰かのために何かできるような自分になることが大事だと思い始めた。そしてそのためには、そのような自分になるための努力を怠らないこと、そのための高い意欲と意識を持ち続けること、それが必要だと知った。
私たちは生まれてから高校卒業までに18年間、大学卒業までだと22年間勉強する。しかし社会人になってから65歳までは40年間以上もある。その間に人から求められる人間になるための努力、学習を怠って良いはずがない。
私が卒業したブラック企業は数年前に倒産した。うまく再就職できた仲間もいる。もちろん不本意な再就職となった仲間もいる。運があることは否定しないが、運だけでは語れない部分も大いにあるとおもう。
寿命が延び就労年数が伸びる今の世の中で長い期間働き続けるためのラストリゾートは努力とそれを支える意識だと思う。そこには世界や日本といった差は存在しない。