【努力賞】
【テーマ:私を変えたきっかけ】
一生懸命やってらが(いるか)
岩手県 盛岡市  中村 幸輔 76歳

今から約40年前の4月、人事異動で転入してきた1人が私の所属する中学1年の学年長となった。彼は「一生懸命やってらが(やっているか)」と私に尋ねた。私は返答に困ったが「はい」と答えた。「それなら証拠を見せろ」とのこと。何を言われているのかとっさに判断できなかった。「去年までの成績表を見せろ」とのこと。それを見て「これで一生懸命やってら(やっている)と言えるか。この平均点は何だ。自分が教えたことをテストして60点代とか70点代とは何事だ。これでは指導したことになってね(なっていない)。教員になって10年経ったら生徒に力をつけるための最低の指導力は確立していなければならない。甘く見ても平均点は80点以上だ。俺はこの生徒たちの平均点を岩手県下一にする」と言った。「県下一にする」という言葉は私には強烈なショックだった。

私は今まで一生懸命指導したつもりだが、到達数値までは考えていなかった。考え方が甘かったのだ。彼は「経済界では『最小の経費で最大の収入を得る』と言うが『教育では最大の力で最大の力を付ける』そのためには24時間生徒に付ききりになる気持ちが必要だ。今生徒数は約200人だが俺は全学級の担任だ」と言った。私には想像できない内容が多かったので今後の彼の具体的な実践や指導法が見られると思うと心が弾んだ。

さて入学式終了後、新入生退場の直前に彼は「ちょっと待て」と声をかけた。「授業が始まるまでに都道府県名を覚えてこい」と大声で叫んだ。入学式で宿題が出るとは生徒も保護者も教員も驚いた。放課後彼は当日欠席した生徒の教科書を風呂敷に包んで背負い自転車で各家庭に届けた。日常の彼の指導は非常に厳しく緊張の連続だと生徒が話していた。時間の中で指導しきれない生徒がいると帰宅前にその生徒達を家庭訪問し指導して回った。長期休業中は時間を見つけては家庭訪問、多い日は20軒以上だった。彼は「俺は全生徒宅を最短距離で回れる」と話していた。彼には生まれたばかりの赤ちゃんがいたが奥様が入院して夜は自分で面倒を見ていた。冬季は赤ちゃんを背負いミルクとおむつを持って自転車での家庭訪問。玄関を入るとお湯をもらいミルクを飲ませ、おむつを替えてまた次の家庭へ向かった。保護者は「先生が大変だ」ではなく「赤ちゃんが可愛そうに」と言い合ったそうだ。生徒達が道路で偶然先生に会うと彼は「コリャーやってらが(やっているか)」と遠くからでも声をかけるのでできるだけ先生に会わないように、会いそうになったら隠れたという笑い話が残っている。生徒たちはこの厳しい指導について行き先生も生徒を付いてこさせた。その結果先生が宣言したとおりどんな外部テストでも平均点が県下一になった。先生は「教育界では○○学校に何人入れた」という言い方があるが間違いだ。我々の使命は生徒にどの学校のどの科にでも入れる力をつけ志望校の選択は保護者と本人だ。生徒が○○先生に教わっていれば塾に行く必要がないと考えさせる指導をしなければならない。塾に行く生徒がいるなら教員の指導力の不足だとも言った。

それでも高校不合格で浪人をした生徒が出た。彼は3年後転出したが次の学校での勤務終了後帰宅前にその生徒達の家庭訪問を繰り返した。想像を絶する指導力とアイデアと実践力に頭が下がった。

その後私も先生に少しでも近づきたいと図書も読み家庭訪問も繰り返し、電話利用での朗読指導、200冊のノート点検方法等を工夫した。その間生徒からの反発や保護者から校長への教科担任を外せという訴えなどあったがこれらを乗り越えることができた。その後さらに指導法を改善、工夫し平均点県下一に達することができた。あの先生から指導を受けたお蔭だった。あの先生に出会わなければ私の運命は変わっていたであろう。

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