【努力賞】
【テーマ:私を変えたきっかけ】
私を変えたきっかけ
大分市  岩堀 峰雄 65歳

私を変えたきっかけ、それは、一冊の本だった。「ホンダの事務革新」。

今から42年前、大卒社員として、晴れて、一部上場総合化学会社に入社したが、仕事が好きになれず、早々と、二度と戻れないと言われていた子会社に出向と相成った。子会社の仕事は、まずまず面白かったが、所謂、普通のサラリーマンとして8年も過ごし、年齢も30歳を越えてしまった。「このままでいいのか」、自問の日々が続いた。そんなある日、仕事で関係があった同郷の先輩(本社勤務)に、復帰の相談をしたところ、親身に考えていただき、しばらくして、幸運にも、本体に戻れることとなった。

復帰して、どうだったか。私は、正に、浦島太郎であった。文系同期は、30名いたが、大きく差が開いてしまっていたのだ。業務遂行能力も、大卒社員として心構えも見劣りしていた。上司から「お前、いい上司に巡り合わなかったな」と言われる始末であった。それから4年間、業務の傍ら、会計の勉強を一生懸命勉強した。私は、法学部卒なのに、経理財務が担当職務であった。それでも、自問の日々は続いた。これまで、ほぼ横一線だった昇進に、差がつき始めていたのだ。生き残るため、「人と違う何かを見つけなくては」。そして、不況になった。当時の、異動先、大分工場でも、コスト削減に取り組むことになった。無論、事務も例外でなく、私は、事務部門全体の、事務局的な立場を任されることになった。そんな時、本屋で、偶然一冊の本に巡り合った。「ホンダの事務革新」。一読して、私は、これだと思った。そこには、いろいろな例が書かれていたが、何よりも印象的だったのは、「1〜2割のコスト削減では、新しい発想は出てこない。半分で、できないかを考えて、初めて、画期的なアイデアが生まれる」と。それから退職するまでの、約20年間、どこに異動しても、環境が変わっても、このテーマに取り組んできた。そう「当社のミスター効率化」と言われるようになるまで。中には「そんなことしても無駄」という人もいたが、ひるまなかった。何故、私が、これ程までに、のめり込んで行ったかを、当時の効率化事例で紹介しよう。頃は、昭和59年、銀行振込は、まだ手書の時代であった。そして毎月約200件の支払いがあった。私は、何とかならないを、日夜考え、ふとある時、アイデアが浮かんだ。当時、大分では、カードが、まだ普及していなかったが、カード化しよう、そしたら1件で済むと。そして、カード会社2社に競争してもらい、終にカード化を実現させたのだ。工数・手数料が削減できただけでなく、上司の発案で、カードに枠をつけ、交際費節減という思わぬ成果も果たした。私は、効率化というテーマに取り組むことによって、地場社会をも、変えていったのだ。そして、自ら、発想し、実行し、成果を上げると、それだけで自分は、充分楽しいことに気づいたのだ。おまけに、上司から、成果を認められると、生き甲斐もでてくる。

そして、二度目の秩父工場に課長として着任した際、たまたま、上司の部長が、「生き生き集団」を作ろうとの考えを提唱されたのを機会に、「仕事が楽しい」と、事務部門全員が思えるような小集団活動を推進していった。それは、見事に実現され、生涯で一番理想的な職場となった。工場長の前で、部下が生き生きと発表するのを見ると、我がことのように嬉しかった。こうして、秩父工場が変わったという噂は、本社にも届き、私は、本社への栄転を果たすことになった。中でも、バブル崩壊後の、会社として苦しい時期に、物流Gのリーダーに抜擢され、物流費5%削減という命題に応え得たことは、この上ない喜びであった。

老境に差し掛かった今、我が人生を振り返っても、全く悔いのない人生であったと実感できる。一冊の本が「人」を変え、「仕事」の楽しさを教えてくれたのだ。「仕事は、労働時間の切り売り」では、余りにも人生が寂しい。

戻る