ミルクティーを片手に世界銀行の協力で出来たアジアハイウェイ脇の茶店で、私は店の親父と片言の現地語を交わす中、時間はゆっくりと過ぎてゆく。すると、目前の高速道路を事もあろうか、力車や荷物を満載した大八車を引く車夫が通り過ぎる。一方で、その列を蹴散らすかの様にけたたましくクラクションを鳴らして、チッタゴン港からダッカへ陸送される日本製の自動車が矢のような速度で過ぎ去った後、静寂が戻る。暫くして場面は変わり、牛や山羊の群れを追い立てる牧童が近道をするのか、ノロノロと歩んでゆく。このような光景に出くわすと、此処は一体いつの時代に当たるのか、過去と現代がコマ送りの如く交互に入れ替わり、恰もまるでタイムスリップしたような錯覚に私は唖然としてしまって、暫くは開いた口が塞がらない自分を眺めていたところで目が覚めた。 「あぁ、夢だったのか!?」寝ぼけ眼の私は頭を振り、最近は年を取ったのか30数年前に過ごしたバングラデシュの夢を時々見る。そして夢から醒めてもまだその余韻を引っさげて、以下のように続くのである。周りの風景は見渡す限りの緑の稲田。その中を真っ直ぐに一本道が遥か地平線まで続いている。灼熱の太陽で焼けた黒いアスファルトにスコールが降るも、忽ちに立ち昇る白い蒸気を含んだ風が頬を撫で、時は止まっているようにも感じられ、空には虹まで架かっている。ああこの感覚と匂い!自分は今憧れの外国に居る実感に陶酔し、この風景の中に身体が溶け込むような錯覚に襲われ「バングラデシュの風に吹かれる」とはこういう事かと、発展途上国でしか味わえない体験を私は持つ。
私は長らくタイムカード、就業規則、生産性管理等に縛られた会社の一歯車として黙々と働き、人と争わないようなるべく当たり障りのない会話をし、やっと生活出来るだけの給料を貰って慎ましく生きていた。まるで浮き世の修業僧のような生活を送り、ただ歳だけを重ねてこのままやりたい事もしたいことも出来ず青春が過ぎ去って行くのか、と思うと人生そのものがやり切れなく、生きている事さえもが詰らなくなっていた折りだった。
そんな27歳の時に思い切って自分自身に道筋をつけ、2年間の限定ではあるけれども会社を休職し、青年海外協力隊隊員としてバングラデシュで溶接の職業訓練指導を行った。そこにはサラリーマン生活では経験できない何かが待ちうけ、異文化体験が私の人生に何かしらの刺激を与えることで、新しい道が拓けるだろうと考えたのだったが、本音を言えば会社が嫌で逃げ出したに過ぎない。
そこまで会社が嫌なら「辞めればいいじゃないか!」と今の若い人なら言うだろうが、 大手造船所に就職した私の姿に安心しきっている両親の姿をみるにつけ、正当な理由なく会社を辞める事は親不孝に繋がると思えて、私には決断出来なかったのだ。仮に会社を辞めても、溶接の技能・技術しか能の無い私が他へ移っても仕事内容に進展はなく、であるならばこの会社で辛抱するのが得策か?と長く悩んだ末に、上述の進路をとったのである。
長い人生の2年間、技能・技術を通して日本では体験できない色々な現象に感動しつつも、戸惑いながらの国際技術協力だった。帰国後、結果的に現在の(独)高齢・障害・求職者支援機構に就職することが出来たのは、頑なに一つの職業を貫いた事に加えて嫌だったけれども会社を辞めなかった結果が今日に繋がっていると言えよう。この経験を生かして、職業訓練指導を行う私の指針は、物の溢れる国から貧しいけれども心豊かな文化を持つ国を通して祖国日本を眺めた体験が、現在の職業訓練指導に生きていると思うのである。
これからの若い人も私のように苦しみ悩む時期がきっとあり、そんな時には安易に会社を去ることなく、私のような例があることが皆さんの一指針になればと思う。