私は高等学校教員である。10年程教壇に立ち続けている。職に就いた当初は1時間ごとの授業をこなすのに精一杯であった。しかし、数年が経つと、生徒の進路に関わる相談を受けることが増え、その都度、生徒ひとりひとりが自らの将来に夢や希望を抱きつつ学んでいることを実感するようになった。すると、自然、自分の仕事の内容も生徒の夢を実現させられるような方向へと変質していった。
私が高校3年生の学級担任に配属され、生徒の進路指導を始めた時に思い出したのが、高校時代の恩師のことであった。
私が高校3年生の時、その先生は私のクラスの政治経済の担当となった。「君たちの担当になったYです。政治経済は、常に新しいことを知っていなければならない。だから、社会情勢について疑問があれば、遠慮無く質問して欲しい」という先生に、私は授業中に多くの質問をした。Y先生は私のつたない質問の一つ一つに丁寧に説明をしてくださった。そうしたやりとりを通じてY先生と個人的に話すことも増えていった。また、定期試験でしくじり、点が伸びなかった時には余白に「君の力はこんなものではない」といった内容のメッセージがびっしりと書き込まれていた。
時折、Y先生は2・3日学校を休まれることがあった。風邪でもめされたかと心配したが、実は先生は重い白血病に冒されており、その治療に向かわれていたのであった。私がこの事実を知ったのは、幽冥境を異にした後であった。
冬になり、私にも大学受験が迫ってきた。私は教育系の大学を選んだのだが、その受験科目には面接が課されていた。不慣れなこともあって、面接の練習の結果は毎回さんざんであり、「このままでは合格は厳しい」と、言われてしょげていた私に声をかけてくださったのが、Y先生であった。
Y先生による教官室での懇切丁寧な指導は連日放課後夜遅くまで続き、ようやく受験生らしくなり、無事に受験の日を迎えられた。手応えは上々であり、また、朗報も届いた。直ぐにY先生の元へと向かい、感謝の意を伝えた。その時、Y先生は微笑みながら「君はきっと良い先生になれる。頑張りなさい」とだけ仰った。
大学に入り、半年も経たないうちにY先生が亡くなられたことを知った。当時、不惑を迎えられたばかりのY先生は、ご無事ならば定年までの間にどれほどの人材を育て上げられたのだろう。
恐らく、Y先生にとって最後の進路指導の生徒となった自分は、Y先生の無念をわずかでも晴らそうと懸命に働いた。そして、何とか高校三年生の学級担任を勤め上げることができた。「私は大学に進んで、先生になりたいんです」という卒業生も出てきた。言葉にできない満足感がこみ上げてきた。
「働く」という行為は、労働力を提供し、対価を得る行為だとY先生の授業内で教わった。しかし、人と人との関わりは、貨幣のやりとりだけではないことも、またY先生から教わった。限界を間近にされたY先生が仰った「君はきっと良い先生になれる。頑張りなさい」は、将来先生になろうとする私に対するY先生の「願いのバトン」であったのだろう。「働く」ということは、次世代に夢を託すと言うことでもあったのだと、自分がY先生のように次世代を指導する立場になって痛い程に解った。
自分がその「願い」を完璧に実現できたか否かはわからない。ただ、何とか次世代に「願い」を託すことはできた。だが、これに満足せず、より多くの後輩達に「願い」を伝えられるよう、日々真剣に働いてゆかねばならない。