【佳作】
【テーマ:私を変えたきっかけ】
仕事は一生もの
横浜市  鈴田 浩二 69歳

働くということは人並みの生活を全うしたいからである。幸せになりたいがため人は、働くのだ。だがしかし、労働力を提供してお金を稼ぐということは並大抵なことではない。

中卒で工員となった私だが、仕事というものは(特定業種を除けば)「仲間」達との連係でなすのが常だ。無教養で生意気盛りだった私には、協調性が欠落していた。孤立した。社会人となって浴びた強烈な洗礼パンチだった。ちょっとかったるい(もちろん私の独断)先輩に口答えしていきなり殴られた。徒弟制度が幅を効かせていた昭和30年代では当然なことだ。不純な動機でボクシングを習っていた私は、殴り返して怪我をさせてしまった。内心は辞めたかったのかもしれない。その場で職場放棄した。組織の一員として生きるのは。つくづく不適格者であると痛感した。流行っていた♪〜気楽な稼業ときたもんだなどという唄を地で行ったつもりはないが、運転手になった。観光バスやタクシーにも乗務してみたが、客商売も不向きだということを悟らされた。1人仕事を模索した。あった。

爾来20年余りバブルの恩恵を受けクレーン車のオペレーターとなった。肉体労働しか知らない私には、レバーの操作さえしていれば済むこの仕事はうってつけだった。天職だとうぬぼれた。ゆえにかど多い私の性格は矯められぬままとなった。私は知る由もなかったが「情緒不安定症の部類に属するんじゃないか」と、こと細やかに教えてくれる人もいた。

やがて不景気風が波、うねりとなる。運転手稼業も“その他”とはならなかった。そんな時にとび職40年の親方との出会いがあり、請われた? こともあって転職した。私45歳だった。人生で最も金が必要な世代だ。仲間との連係がもっとも要求される仕事だったが耐えた。耐えざるを得なかった。人間の集団だもの鼻持ちならない者もいる。愚弄する気は毛頭ないがヘルメットを被り安全帯一本で仲間を信頼してする仕事。体力のみで稼ぐ男達。この気概が私のかどを吹き飛ばしてくれた。まさに人生とは愉快だ。面白いものだ。痛快であった。頭脳労働者(経験したことはないのだが)にはない単純明快な仲間との連係は、かけがえのないものだとさえ感じられるようになった。鳶百般と呼称されるほど作業内容は多彩だったが、ほぼ10年でなんとかマスターできた。

オヤジ(親方)が新事業の会社を紹介してくれた。独立した。仲間連中も応援してくれた。強い味方であった。例の大震災まで13年間、仕事は順調に推移した。

こんな按配で生きてきた私だが痛切に思うことがある。それは働くということは楽しくなければならない。どんなに苦しみがあってもだ。さらに仲間達がいるということ、これはとてつもない財産となるのだ。

生まれたとき両親から授かった能力とか体力というものはいかんともしがたい。与えられた器量の中で精一杯生きてさえいれば、世間の大人達はそうした若者を見捨てるほどバカじゃない。この一事を体力勝負で生きる若者に伝えたい。知って欲しい。

自分に適正な仕事などというものは正直やってみなければ分からない。転職を恐れては駄目だ。臆病になるな。ひと筋でもふた筋でもそしてみ筋でもいい幾筋かの仕事の中から、これなら誰にも負けないぞ、そういう技術を習得することだ。そして打ち込んでみること、体が覚えた技術は決して裏切りはしない。

地震と津波、予想だにしなかったことで店じまいした私だが、自然の猛威に対して人間は、いかに矮小な存在であるかということを再確認させてくれた。若者達よ! 自分は自分でしか守れない。一徹に技を磨こう。

仕事は一生ものなのだから。

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