その瞬間の感覚は今でも忘れません。「会社を辞める」と決めた時のこと。
私には天職だと思って勤めてきました。しかし、それを手放すという、強い決心がどこからか、湧いてきて胆が据わりどっしりとして、地に足がついた感じ。それまでの悶々として、時間に追われセカセカした生活がはじけ、長いトンネルの出口から光が遠くに見えたような・・・。あっという間に、気持ちが切り替わり、気が楽になりました。そして、さあ、この計画やり切るぞ。と心に誓いました。
私の仕事は栄養士です。中小企業で産業給食の会社です。そこで、献立作成・仕入・現場指示から教えていただき、長い年月をかけ、営業や新規打ち合わせ・クレーム対応・従業員衛生教育・接客マナー指導など、経理以外の仕事はすべて出来るようになっていました。これも、20歳の時から無色だった私を会社色に染めて大事に育ててくれた会長さん、社長さんのおかげです。
社長さんは、お客様とのやり取りの中で戸惑い、足を止める私に「好きなようにやりなさい。責任は私がとりますから」と未熟な私をバックアップしてくださり、その思いに応えられるように、何事にもチャレンジしました。そして、社長さんからの要望に「出来ません」という答えは出さない。だから努力を惜しみませんでした。
縁あって、会社の先輩と結婚しました。夫婦が同じ職場にいるのは、周りの方に迷惑がかかると思い、夫が転職しました。このような環境でしたので、夫は私の仕事を理解してくれていました。2人の子どもに恵まれ子育てにも協力的で、子どもが病気になって医者に連れていくのは夫でした。上司に「家庭の事情を職場に持ち込むな」と注意されていたので、「女だから許される」と甘えるのをやめました。子どもたちも病気になるとママに面倒を見てもらえないとわかっているようで、病気にもかからなくなりました。我が家は「病は気から」というのが合言葉。
こんな感じでいつも全力投球でしたから、40歳で体調を崩し、ドクターストップ。約1年間休職。その後無事復帰しましたが、休職中も献立作成や発注書作成などのデスクワークは自宅でやらせていただきました。
ところが、復帰してから後輩の栄養士がなぜか成長していなくて、困って上司に相談した時に「おまえがやっている事はたいしたことないんだよ。プライド高すぎんだ。後輩ができないなら全部おまえがやれ」と、言われました。この、瞬間です。「この人に私の力を貸すのは辞めよう」この方が次期社長だと思っていましたので。
そこから、退職計画実施です。厚生年金を25年は積みたいので、あと3年です。パートさんたちが自分の仕事に自信を持ち、責任を持つことが業績アップにつながり、私がいなくても会社は動くと確信しました。そのために私は色々な勉強をしました。自己啓発、コーチングなど。
「たいしたことない」の一言が私を自由にし、私の人生を楽しく変えてくれました。3年間を有意義に過ごし、違う実力を身に付け、円満退社いたしました。最後のタイムカードを押して、ウキウキ気分で自宅に戻ったとき、家族の顔を見たら、どれだけ私は好きな仕事のために家族を犠牲にしてきたのだろう。「支えてくれてありがとう」素直に言葉が出ました。家族みんなで泣きました。
働くってなんだろう。自分の持っている可能性を引き出してくれ、家族の大切さを教えてくれました。仲間を信じてチャレンジすること、視点を変えて働くと人生が変わる。どう働くかだと思います。辛い仕事の中にも自分がどうやったら楽しく働けるか視点を変えられれば何の職業に就いても、自分の魅力を引き出せると思います。楽(らく)してお金は手に出来ません。
こんな私はこれからグローバルに活躍したいと考えています。
現在49歳。この先私に定年はありません。