【佳作】
【テーマ:私を変えたきっかけ】
父の「まいど!」と母の背中
大阪府 阪南市  森貞 孝一 43歳

いつも笑顔で取引先を迎える父の「まいど!」

50CCのカブに乗り、静かに職場に向かう母の背中。

対照的な2人の仕事への姿勢が私の働き方の原点である。

四国出身の父と母は私が幼い頃、仕事のため大阪で暮らすことになった。

父は船場の小さな繊維商社に勤務し、私が小学生の頃、脱サラして商売を始めた。夏休みには父は私を助手席に乗せ、紡績工場や神戸の取引先に連れていった。どこに行っても笑顔で「まいど!」と話しはじめる姿にあこがれ、真似をし、大きくなったら父のような仕事がしたいと思っていた。しかし、その後訪れた繊維不況の波に飲み込まれ、私が14歳の時、1年半の闘病生活の末、父は亡くなった。

その頃、商売の清算や入院費の負担で、家計はかなり厳しかった。

父の商売を手伝っていた母は地元で仕事を探し、何とか健康保険に加入できる病院給食の調理場に働き場所を見つけた。母は毎朝、私と弟の弁当を作り、雨の日も風の日も静かにカブに乗って家を出る。夕方、ブルッ、ブルブルブルンッとカブの音がするのを待ち構えて私と弟は食べ物をねだった。時折持ち帰る病院給食の残り物は何よりのご馳走で、競い合うように食べた。今では目にすることのない腕時計のバンド用金属カレンダーを台紙に挟み込む夜の内職の時間は、その日の出来事を話す大切な家族3人の時間であり、稼ぐ苦しさを味わった原点でもある。

それまで何不自由なく暮らしてきた私は自己中心的で、自分が線を引いた小さな枠のなかで生きていた。
自分の思い通りに物事が進まない時は、いつも周囲の責任にしていた。しかし、父の死は、その暮らしは父と母と社会との関わりで成り立っていたことを私に教えた。

当時私は、母子家庭となった私たち家族に、父の生前と変わらず接してくれる人、離れていく人がいることを肌で感じていた。人の温かさ、冷たさを知って、もがいた時期もあった。しかし、結局人は1人では生きていけないことを痛感し、父がそうであったように、たくさんの仲間とたくさんの時間を共有することを大切にするようになった。

奨学金のおかげで大学へ進学することができ、私の就職が決まった時、母子家庭であることを心配していた母は、何度も何度も仏壇に手を合わせていた。

私は、少しでも父が経営していたような小さな会社の力になりたいと思い、銀行に就職した。素敵な先輩、同僚、後輩やお客様達と出会い、辛いこと、嬉しいこと、苦しいこと、楽しいことがたくさん待っていた。

そして今、私は父が駆け抜けた年齢を超えた。

現在は勤め先を変え、ひとを育てる仕事に打ち込んでいる。

正直、現場はしんどい状況だ。

みるみる人が減り、その分仕事は増えても、給料は上がらない。

心の健康を崩す者も増えている。

私は、社員に問いかける。

ありのままの自分を好きですか。

ありのままの自分を好きなひとは、自分の弱さに向き合っているひとです。

自分の弱さに向き合っているひとは、ひとを受け入れることができるひとです。

苦しい時こそ、苦しみながら自分に向き合うことが、それぞれの道を拓くきっかけとなると私は信じている。

そんな私のなかには、父の「まいど!」とカブで静かに職場に向かう母の背中がある。

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