現在、私の職業は保育士。保育園で働いている。我が人生4度目の職場だ。早いもので足かけ10年になる。会計事務所に始まり、児童養護施設、一般企業の経理事務兼総務の仕事を経て今に至っている。今回「働くってなんだろう」の文字を目にした時に正直、戸惑いを感じてしまった。何故ならこの40数年を振り返ると、そんな疑問を抱くこともなく、また間も置かずに自分はずっと働いてきたのだと改めて気付かされたからである。それがどうという訳でもないのだが、働くのは至極当たり前のことだっただけに過ぎない。
仕事から学んだ事。私にとってのそれは転職する度毎の様々な人との出会い、そしてその人々のお陰で自分が人間として成長でき得たことではないかと思う。勿論、その時その場に於ける仕事そのものに直接求められる知識の習得、技術の習得などは大事なことだが、それらは日々目的意識を持ち、探求及び実践していく事によって培われるのではないだろうか。私の場合、四つの職場それぞれで多くの人に出会い貴重な体験をしたが、中でも3番目の職場――、上下水道関連の本管を製造する企業では毎日が生きた学問そのものであった。
朝、全員でのラジオ体操のあと、始業のベルが鳴ると同時に各機械が一斉に唸り、鉄の切断やロール曲げ、旋盤、溶接など活気のある作業音が、時折驚かされる振動を伴って二階の事務室に響いてきた。新たな一日の始まりの音は実に心地よいものだ。事務職である私が工場内に入ることは滅多になかったが、その場は聖域にも等しいものだと感じ取った。学歴や年齢は全く関係がない真の実力の世界、そして挑戦の世界であり、更に清々しいまでの縦に一直線に引かれた厳しい場に見えた。各人に具えられた目、手、指、それら研ぎ澄まされた五感を最大限に駆使して製品が完成される。「技」の結晶である口径500ミリメートルから3,000ミリメートル級の完成品が大型トレーラーに積み込まれ、誇らしげに国内各地に出荷される。感動を覚えずにはいられなかった。
だが、ほんのたまにだが製作過程に於いての失敗が生じることがある。その時に感心させられたのだが、叱責や非難、不満の声はなく工場長以下工程管理、現場責任者、材料発注担当者らがすぐに集まり、納期に間に合うべく善後策を講じ、指示が飛び、再び挑戦が開始される。笑顔さえ浮かべての「やってみせる」その気迫には目を見張らされた。これが物造りの自負というものなのか。また安全を各自意識しているはずだが、思わぬ事故や怪我をした場合には、怪我をした本人の過失よりも「怪我をさせてしまった。守ってあげられなかった」という管理責任のほうが優先する。時には報告を受けて駆けつけた本社の製造本部長を交えて事故が起きた要因、見過ごしていたことはなかったか、お互いフィードバックし合い、今後の安全対策や指導方法が論じられ、改善されていった。そこには人の命に対する思いやりという優しさが根底に見えた。
残念なことにその事務所は他県へ移転することになり、私は退職を選択、15年程の意義ある学習過程が終了した。個人的なことで職の技人(わざびと)と会話ができたのは各種の技能講習、技術検定試験の書類申請手続きや作業服の調達など、ほんのわずかな間接的な時間に限られていたが、それでも自分自身のいかに狭く、一方的な物の見方、考え方と対峠させられ何度修正しなければならなかっただろう。そうして学び、導かれた今の私が在る。数多くの恩師に出会えたことに感謝という言葉以外のものはない。そしてまた、無邪気な乳幼児と戯れている現在の日々に於いて、命を預かる責任、思いやる優しさは、いみじくも最も重要な課題である。